キリストに抱き上げられる者

8月12日

牧師  梁 在哲

マルコによる福音書 9章33~37節

主イエスは変貌の山に3人の弟子だけを連れて登られたが、弟子たちの間ではいつの間にか競争心が芽生えて誰が一番偉いかと言い争った。弟子たちがこのような議論していたことを主イエスは既にご存知であったので、恥ずかしくなり黙っていた。そこで主イエスは弟子たちにへりくだることを子どもに例えられた後、一人の子どもを真ん中に立たせられた。当時のユダヤ社会では子どもたちは人数に入れなかったが、主イエスは偉い大人ではなくて最も弱くて力のない子どもに例えられて、立たせられたのである。

何故なら、子どもは自分の力では生きていけず両親と周りの人々に寄り頼る単純で素直な存在であるからである。そして主イエスは、その子どもを群衆の真ん中に立たせられて御手を伸ばされて抱き上げられた。当時ローマでは、「生まれたばかりの乳飲み子たちは父親の足もとに置かれ、父親に抱き上げられて認識された子どものみ生き残るようになった」と、伝えられているが、主イエスは最も弱くて素直な存在である子どもを群衆の真ん中に立たせられ抱き上げられたのである。

使徒ペトロは子どものような謙遜な者のことをこう証した。『「同じように、若い人たち、長老に従いなさい。皆互いに謙遜を身に着けなさい。なぜならば、「神は高慢な者を敵とし、謙遜な者には恵みをお与えになる。」だから、神の力強い御手の下で自分を低くしなさい。そうすれば、かの日には高めていただけます。」』(ペトロの手紙一5:5~6)ある英語訳では「謙遜のエプロンを身に着けなさい。」と訳されているが「エプロン」は身を低くして仕える際、謙遜な者のみ身に着けるものだからである。

詩編の記者も人を高く上げるものをこううたった。「そうです。人を高く上げるものは東からも西からも、荒れ野からも来ません。神が必ず裁きを行いある者を低く、ある者を高くなさるでしょう。」(詩編75:7~8)弟子たちは高ぶりや妬みのゆえに誰が人より高くなって一番偉いかと言い争ったが、主イエスは最も弱くて素直な存在である子どもを抱き上げてくださった。私たちも子どものように「謙遜のエプロン」を身に着けてかの日には主イエスのみ手によって高く抱き上げられる者になりたいと願う。

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