まことの神殿

1月27日

牧師 梁 在哲

ルカよる福音書 21章1~6節

過越祭が近づいているある日、主イエスは神殿の中で「婦人の庭」と呼ばれる所で、金持ちたちが賽銭箱に献金を入れるのをご覧になった。ところが、主イエスがご覧になったのは神の御前に捧げられたある名もなきやもめの真心の方であり、次のように言われた。「あの金持ちたちは皆ありあまる中から献金したが、この人は乏しい中から生活費を全部入れたからである」(4節)と。この箇所は文語訳では「即ち、己が生命の料ことごとく投げ入れたればなり」と訳されているが、主イエスは「己が生命を父なる神の前に差し出される」十字架の出来事が迫って来る中で、「己が生命の料をことごとく投げ入れた」名もなき貧しいやもめをご覧になり、彼女は自分も知らないうちに「己が生命を十字架の死へと差し出される」まで父なる神に従順でおられる主イエスのことを証したのである。

しかし、周りの人々の関心事は見事な石や奉納物で飾られている神殿の姿であって、彼らは目に見える人間の造った物に心を奪われていた。そこで主イエスは彼らに厳しい問いをお掛けになった。「あなたがたはこれらの物に見とれているが、一つの石も崩されずに他の石の上に残ることのない日が来る」(6節)。神はソロモン王以来建てられた神殿を壊されることによってご自身の民の信仰と偶像崇拝の罪を赦されないことをお示しになり、最後に御子イエスをお遣わしになって主イエスは偶像崇拝に陥っていながら盲目的な信仰の場所となってしまった神殿が徹底的に壊されることを預言されたのである。

「まことの神殿」のことを使徒パウロは次のように証した。「あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちのに住んでいることを知らないのですか。神の神殿を壊す者がいれば、神はその人を滅ぼされるでしょう。神の神殿は聖なるものだからです。あなたがたはその神殿なのです。」(コリントⅠ3:16~17節)。主イエスより厳しい問いをかけられた人々は、皆衝擊を受けていたが、しかし私たちは今朝それを新たな思いをもって聞いている。何故ならば、私たち一人一人が神の民として神の神殿であり、私たちが連なっている主イエスのお体なる「まことの神殿」‐教会‐は崩されることなく消えることなくて生かされつつ、世の暗闇の力を打ち破るからである。私たちは主イエスのお体なる教会に仕える者として主イエスは私たちのために「己が生命を十字架の死へと差し出された」救い主であられることを、また主のご復活を証し続ける者でありたいと願うのである。

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