網を降ろしなさい

1月13日

牧師 梁 在哲

ルカによる福音書5章1~11節

夜通し苦労したが何も取れなくなって空っぽの網のゆえに落胆していたシモン・ペトロに主イエスは「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と言われた(4節)。主イエスはもっと深い所に網を降ろしなさいと命じられたがシモン・ペテロ(以下、単にペトロと云う)は素直にこう答えた。「しかし、お言葉ですから、網を降ろして見ましょう」(5節)。そしておびただしい魚がかかり、網が破れそうになり船が沈みそうになった光景を目の当たりにしたペトロは主イエスの足もとにひれ伏して言った。「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」(8節)。ペトロはこのナザレのイエスが、奇想天外の手を打っておびただしい魚がかかったと思って「参りました」と言った訳ではない。

ペトロは主イエスに出会って隠されていた自分の赤裸々な実体‐疲労困憊となっている‐が暴かれるようになったからである。そして、今まで神無しに、ほこりと塵のような人生を生きて来た自分の実体への自覚が芽生えて今まで経験したことのない畏れと敬いを感じて主イエスに自分の罪を告白したのである。すると、主イエスはペトロに言われた。「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる」(10節)。主イエスのお声は畏れの中にいるペトロに「あなたの罪は赦されたのだ」と、言われる慰めと罪の赦しそのものであった。

ついに船が陸に着いた時、ペトロと仲間たちはおびただしい魚は勿論、船と網、全てを捨てて主イエスに従うようになった。主イエスに従う弟子の道はこのようにゲネサレト湖畔から始まって、ペトロにとってその道程は、時にはサタンとも呼ばれ、時には裏切者とされる辛くて険しいものであったが、十字架と復活の出来事を経験することによって真の弟子の道程となりつつあることを聖書は私たちに伝えているのである。

今も生きておられる父なる神は、私たちにも御子主イエスに従う弟子の道程を整えてくださるゆえに、たとえその道程が険しくて辛くても私たちは主イエスの十字架と復活の信仰をもって真の弟子の道程を進むことが許されているのである。人々を生かすために、また人間をとる漁師になるために私たちには主の御前で自分の罪深さへの自覚と告白が求められるゆえに、私たちは自分こそ、人をとる漁師だという思い込みやうぬぼれを降ろして「人間をとる真の漁師は、自分ではなくて主イエスご自身でおられる」ことを、また「伝道は主イエスご自身がなさる」ことを証し続ける者でありたいと願うのである。

前回 目次へ 次回