主イエスの洗礼

1月6日

牧師 梁 在哲

マルコによる福音書1章1~11節

罪の赦しを必要としない主イエスは、罪の赦しを必要とする多くの者たちと共に罪の赦しを得させる悔い改めの洗礼を洗礼者ヨハネからお受けになられて主イエスは彼らに、ご自分を結び付けて下さったのである。だから私たちも、洗礼によって主イエスに結び付くものとされて、私たちが洗礼を受けるのは主イエスご自身、私たちのような罪の赦しを必要とする者のために洗礼を受けて下さったからである。主イエスの洗礼は2千年の時を乗り越えてご自分と私たちを結び付けて下さるのである。後に主イエスは弟子たちに「この私が飲む杯を飲み、この私が受ける洗礼を受けることが出来るか」(10:38)と、お尋ねになる。主イエスが飲まれる杯と受けられる洗礼は、ご自分のご受難と「十字架の死」に他ならない。罪の赦しを必要とする多くの者たちに結び付いて下さった主イエスはその人々の願い‐ホサナと叫ぶ声と十字架につけろと叫ぶ声‐をもご自分の身に背負って十字架への道を歩み出された。このようにして主イエスは十字架の上で成し遂げられた、もう一つの洗礼を通してご自分を私たちに結び付けて下さったのである。

私たちが洗礼を受けるのは目に見えるが、主イエスに結び付くのは見ることが出来ない。しかし、そこには三位一体の神の力が働いておられて、私たちと主イエスの見えない結び付きを示して下さる。父なる神は、私たちを守っていて下さり、御子なる神は、救い主として、ご自分の尊い血をもって私たちの罪を贖い、罪と死の力から解き放て下さり、聖霊なる神は、私たちが神をアッバ父よ、と呼ぶように、そして私たちに永遠の命を保証して下さるからである。主イエスの洗礼において目に見えない出来事が起こったがそれは「天が裂けて、御霊が鳩のように主イエスの上に降られた」ことである。天が裂けることは天と私たちの世界とを隔てている深い溝、即ち私たち人間の罪が裂けるということである。父なる神は罪の奴隷となっている人間を救われるため御子を救い主としてお遣わしになり、御子を十字架の上で人間の罪の贖いとして捧げさせ、三日目に復活させられた、これらは全て「天が裂けた」出来事である。

また、御子は聖霊が鳩のようにご自分の上に降って来るのをご覧になったが、この出来事によって御子は御父の思いを弁える者となられて御子は十字架の死に至るまで御父の御心に従順に従う道を歩み通された。主イエスの上に降られた聖霊はペンテコステの日に弟子たちの上にも降って、彼らを主イエスの思いを弁える者とさせられて教会が誕生したのである。私たちは自分のことを無にして全てのことを主イエスのみに集中していた洗礼者ヨハネの模範に倣いつつ、主イエスの洗礼を通して三位一体の神が、私たちの救いのためにお働きになる大いなる御恵みを喜びと確信をもって語り告げ続ける者でありたいと願うのである。

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