命を救う安息日の主

2月10日

牧師 梁 在哲

ルカよる福音書6章1~11節

安息日はユダヤ人にとって割礼と共に自分たちのアイデンティティ-を確認してくれるものとして厳しく守り続けてきた。安息日の根拠は神の天地創造に由来し、「第七の日に神は天地創造の仕事を離れ、安息なさったのでその日を祝福し、聖別された」(創世記2:1~3)。そして安息日のもう一つの側面は神がイスラエルの民をエジプトから導き出されたことを記念する日でもある。「あなたは、かつてエジプトの国で奴隷であったが、あなたの神、主が力ある御手と御腕を伸ばして、あなたを導き出されたことを、思い起こさねばならない。そのためにあなたの神、主は安息日を守るよう命じられたのである」(申命記5:15)。

このように父なる神がエジプトの国で奴隷であったイスラエルの民を解き放ってくださり、ご自分の民として神に礼拝を捧げることができるようにしてくださったように、御子なる主イエスは罪の奴隷となっている私たちを解放し、神の子として礼拝を捧げることができるようにしてくださった。それゆえまことの安息をもたらされる主イエスは「人の子は、安息日の主である。」(5節)、と言われたのである。主イエスは私たちの罪を贖って下さるためにご自分の肉を裂かれて血を流されたゆえに、私たちはまことの安息に与ることが許されて聖餐式の度に主イエスの十字架で裂かれたお体と流された血潮を思い起こすのである。

 ついにある安息日に主イエスは神の祝福-まことの安息-への招きに答えるどころか、自分は神から遠ざかっている者のではないかと、諦めていた右手の萎えている者を放置することなくて「手を伸ばしなさい」と、言われた。彼が主イエスより言われたようにすると、手は元どおりになった。主イエスは安息日が終わるのを待つことなく、直ちに右手の萎えた者を癒してくださった。何故ならば、主イエスは瀕死状態に陥っている彼の霊的な命を一刻も早く救うことを願っておられる「まことの安息日の主」であるからである。

神の祝福への招きに答えるべきユダヤの会堂は信仰もなければ、信仰から湧いて来る喜びも、安息もなくて、ただ敵意、否殺意さえ漂っていた。しかし、右手の萎えた者は「命を救うまことの安息日の主」に言われたように従い、命を救われたのである。「命を救うまことの安息日の主」より右手の萎えた者がとらえられて癒されたように私たちも主日礼拝において、また聖餐式において繰り返して主イエスの「まことの安息」に与ることを許されている。私たちは「命を救うまことの安息日の主」イエスが十字架の上で成し遂げられた「まことの安息」を、折を得ても得なくても証し続けてゆく者でありたいと願うのである。

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