キリストが形づくられるまで

2月17日

牧師 梁 在哲

ルカよる福音書8章4~15節

主イエスは「種を蒔く人」のたとえを用いて方々の町から集まってきた群れにお話しになった。それは蒔かれた種が道端や石地、或いは茨の中に、また良い土地に落ちるというものであった。主イエスのたとえは、コインの両面のように用いられて弟子たちにこう言われた。「あなたがたには神の国の秘密を悟ることが許されているが、他の人々にはたとえを用いて話すのだ」(10節)。主イエスはこのたとえが、明かされるべき秘密を持っていることを、つまり、蒔かれた神の御言葉を聞く者が開かれていなければ見ても認めることなく、聞いても理解できないと言われた。それゆえ主イエスはいつも大声で「聞く耳のある者は、聞きなさい」(8節)、と言われたのである。

「種は、神の御言葉である」(11節)。御言葉は、主イエスの語られた福音であり、主イエスご自身でもある。神の国のたとえを語られる主イエスご自身が、それを聞く者に蒔かれているのである。懐かしい人の言葉を思い起こす時、その人の姿をも一緒に浮かんでくるように、御言葉の中で主イエスの姿を仰ぎ見ることが出来るのではないだろうか。主イエスの十字架とご復活の出来事は、御言葉によるだけのものではなくて、十字架のご受難の姿と栄光に輝くご復活の姿は、わたしたちの心の内に形づくられつつあるものである。使徒パウロも主イエスの姿のことをこう証した。「私の子どもたち、キリストが、あなた方の内に形づくられるまで、私はもう一度あなた方を産もうと苦しんでいます」(ガラテヤ4:19)。

主イエスは全ての種が失われてしまうような十字架の苦しみの時さえも、蒔かれた種は、必ず実を結ぶことを信じておられて、御自ら十字架の道へ進まれた。今も主イエスは、弱くて罪深いわたしたちを信じ抜いて下さり、福音の種を蒔き続けておられて、ご自身が再び来られる時、もっと大いなる収穫をもお約束してくださる。それゆえ、わたしたちは全てのことを主イエスに委ねつつ、祈りを持って福音の種を自由に蒔き続けることを許されているのである。キリストが自分の内に形づくられつつある者としてわたしたちは主が再び来られてキリストが自分の内におぼろげなものではなく、明確に形づくられることを待ち望みつつ、地上の旅路を歩んで参りたいと切に願うのである。

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