命と愛の掟

5月19日

牧師 梁 在哲

ヨハネよる福音書15章12~17節

主イエスはご自分と弟子たちの関係を葡萄の木と枝として例えられた後、弟子たち互いの関係について語られた。「わたしがあなたがたを 愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である」(12節)。御子は御父より「命の掟」(10:18)を受けられて、弟子たちの足を御自ら洗って下さり、ご自身を十字架に捧げられる新しい「愛の掟」を弟子たちに与えられた。主イエスは何故、互いに愛し合わなければならないかについて弟子たちに語られた。

主イエスは弟子たちの友となり(15節)、その友のために死なれるほどの愛を示された(13節)ゆえに、弟子たちも互いにご自分の愛の模範に倣うように言われた。しかし、主イエスは友どころか、神に背いて敵となっていた罪人、その仇のために命を捨てられた(ローマ5:8~10)。アブラハムは神より友と言われ(ヤコブ2:23)、神の秘密の計画を知る者となった(創世記18:17)。しかし、主イエスより友と呼ばれる者は、葡萄の木と枝のようにキリストとの自由な交わりにあずかり、命じられる通りに従順するものである(15節)。

しばしば、新来者や求道者たちはご自分で様々な神を選ぼうと、探し求める。しかし、主イエスを信じることは「神の召しに答える選択の信仰」であり、神ご自身のお選び-「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ」(16節)-がなければ、私たちは何も選ぶことはできない。私たちの選びは、ただ教会の花婿でおられる主イエスのプロポーズを受け入れるか、拒むかというものである。使徒パウロも自分の務めを「神の恵みの召しであり」(ローマ1:5)、「母の胎内から選び分けられた」(ガラテヤ1:15)、と証した。

主イエスは繰り返して命じられる。「互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である」(17節)。それゆえ、私たちは「この聖餐にあずかり、ひたすら主に仕え、その戒めを守り、互いに愛し合いながら主の再び来りたもう日を待ち望みたいと思います」と、繰り返す。私たちは友どころか、神に背いて罪人となり、敵であった時でさえ、御子の十字架の死によってご自身と和解させていただいた父なる神の愛にあずかるように聖霊の御助けを求め、互いに愛しながら主の再び来られる日を待ち望みたいと切に願うのである。

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