キリストの偉大な提案

5月12日

牧師 梁 在哲

ヨハネよる福音書6章34~40節

アダムとエバが、エデンの園から追い出されて以来、人間は顔に汗を流してパンを得るようになった(創世記3:19)。日用のパンの問題は、昔も今も変わらない大事なものであり、主イエスご自身も「日毎の糧、パンを祈り求めるように」お教えになられた。ところが、カファルナウムの群衆は自分たちの願うまま、パンを勝手に求め続けた(6:34)。彼らは何か楽になるような「何か良いもの」だけに心を奪われていたからである。

しかし、カファルナウムの群衆だけではなくて、フィリポに誘われた弟子ナタナエル(1:46)も、また今日の私たちも主イエスに「何か良いもの」だけを求めているのではないだろうか。主イエスは、あるがまま等身大の私たちをお求めになり、「命そのもの」でおられるご自身を私たちの罪の贖いのために与えてくださったのに、私たちは「主イエスのそのもの」を求めないで、ご利益のような「何か良いもの」だけを求めているのではないだろうか。

そこで主イエスはこう言われた。「私が命のパンである。私のもとに来る者は決して飢えることがなく、私を信じる者は決して渇くことがない」(6:35)。二匹の魚と五つのパンの奇跡のしるしを見たにもかかわらず、主イエスを信じていない群衆に主イエスはご自分こそ、「天から降って来た命のパン」であり、そのパンを食べるためにご自分のもとに来て、信じる者は決して飢えることも、渇くこともないし、拒まれないと言われた(6:36)。

重ねて主イエスは、ご自分を命のパンとしてお遣わしになった父なる神の御心を明らかにされた。それはご自分に与えられて信じる者が見守られ、ご自分が再び来られるその終りの日には彼らは復活させられ、永遠の命を得るようになることであった(6:39~40)。それは正に小羊の婚宴の日に、教会の花婿でおられる御子なる主イエスが(ヨハネ黙示録19:7)花嫁に告げるプロポーズであり、「偉大な提案」であった。

今も父なる神は私どもに御子なる主イエスを命のパンとしてお与えになり、その御もとに来るように願っておられる。たとえ、私たちは世で苦難があっても既に世に勝っておられ、教会の花婿でおられる「キリストの偉大な提案」に励まされ、勇気づけられて主イエスの十字架とご復活の証人の道を歩み続けたいと願うのである。

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