沈黙を破られたイエス

5月5日

牧師 梁 在哲

ルカによる福音書24章36~43節

エルサレムのある隠れ部屋で弟子たちは、復活された主イエスのことを語り合っていた。ところが、エマオの道で起こった出来事について話している途中、突然復活された主イエスが現われ、真中に立たれて言われた。「あなたがたに平和があるように」と(36節)。部屋の中は一瞬、静まり返り、重い沈黙の空気だけが漂っていた。弟子たちは皆、驚きの余り何も言えなくなったのである。しかし、主イエスのお言葉は、ただ挨拶だけではなくてご自分の誕生の時(ルカ2:14)、またご受難の時(ルカ19:39)、聞こえて来た平和を告げるお声であり、復活された今、告げられる平和の宣言であった。それは疑いと混乱の最中にある弟子たちに主イエスが共にいてくださり、彼らの真ん中に立っておられることによって得られたものであった。

ところが、突然主イエスが目の前に現われて平和の挨拶を言われても、弟子たちは、ただ「恐れおののき、亡霊を見ているのだ」と(37節)、思ってしまった。そのような弟子たちに主イエスはご自分の手や足をお見せになり、「触ってご覧なさい」と言われた。しかし、弟子たちは「喜びの余り、まだ信じられず、思議がっている」(41節)だけであった。彼らはそこから新たな一歩を踏み出すような確かな信仰までにはいたらなかった。再び漂っていた沈黙の空気を主イエスは破られて「ここに何か食べ物があるか」と、言われた(41節)。そこで焼いた魚を一切れ差し出すと、主イエスはそれを取って弟子たちの前で召し上がった。

弟子たちにとって魚は以前、生計を立てる糧であり、「あなたは人間を取る漁師になる」と、主イエスより招かれた出来事と「五つのパンと二匹の魚」の奇跡の出来事-主イエスと共に歩んで来た自分たちの歩み-を思い起こさせるものであった。私たちの信仰もそのような弟子たちの步みを受け継いで、復活された主イエスが弟子たちに現れて食事を共にし、福音宣教を命じて、天に昇り、聖霊を送ってくださるご約束の言葉を信じるものである。主イエスが弟子たちの恐れや疑い、戸惑いに包まれていた沈黙を破られたように、私たちも疑いの波や恐れの嵐をも静めてくださる主イエスの平和のお声に励まされ、聖霊に満たされつつ、主イエスの十字架とご復活の証人の務めに生きる者であり続けたいと願うのである。

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