イエスは生きておられる

4月28日

牧師 梁 在哲

ルカによる福音書24章13~35節

主イエスが復活された「ちょうどその日」、二人の弟子はエルサレムを離れてエマオという村へ向かって歩いていた。彼らが目にしたのは、主イエスの十字架につけられた恐ろしい光景で、何が正しくて何が間違ったことか、全く分からなくなった。二人の弟子は目が遮られて主イエスご自身が近づいて一緒に歩き始められたのに、ただ話し合いに夢中になって歩いていた。

エマオに近づいた夕方頃二人は主イエスを無理に引き止めた。お泊りになる家で主イエスは食卓につかれ「パンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いて二人にお渡しになった」(30節)。すると二人の目が開け、目の前の方が主イエスだと分かるようになった。私たちも主日礼拝において目に見える御言葉の解き明かしの恵みと目に見えない御言葉-パンと杯-の恵みにあずかり、復活されて生きておられる主イエスに出会うことが許されている。

ところが、主イエスは突然去られて残された二人は、道で主イエスが聖書を説き明かしてくださった時、心が燃えるようになる不思議な出来事を語り合った(32節)。ついに二人の疑いは雪が解けるように去ってしまい、彼らは朝になるまで待ち切れず(列王記下7:9)、エルサレムに戻って11人の弟子たちとその仲間たちに告げた。それは自分たちもエマオの道で復活されて生きておられる主イエスに出会ったことであった。

絶望と恐れと混乱に包まれていたエルサレムのある隠れ部屋は、二人の証しと「イエスは生きておられる」(23節)と、告げた婦人たちの証し、そしてペトロと他の仲間の証しが一つになって皆、主イエスの一つの弟子となって行く場所となった。私たちも復活されて今も生きておられる主イエスの十字架とご復活の証人として、目が遮られて主イエスを見出すことの出来ない人々のために執り成しの祈りを捧げつつ、御子主イエスを通して開かれた父なる神への一筋の道(ヨハネ14:6)を歩み続けたいと願うのである。

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