婦人よ、誰を捜しているのか

4月21日

牧師 梁 在哲

ヨハネによる福音書20章1~18節

復活された主イエスは、誰よりも先に癒された婦人、十字架のそばで泣いていた婦人、お墓までに従って来て途方に暮れて泣いていた婦人、マグダラのマリアの前に現われた。死なれた主イエスの遺体を捜していたマリアに復活された主イエスは「婦人よ、なぜ泣いているのか。誰を捜しているのか」(15節)と、言われた。しかし、彼女は園丁だと思って「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしがあの方を引き取ります」(15節)と、言った。力の弱い女性一人で主イエスの遺体を担って行く、そのようなマリアの気迫は、一体どこから来るものであろうか。キリストのお体なる教会は、様々な難問のゆえに、たとえ死んだ遺体のように見えても、それを自分で引き取り、担いで行こうとするマリアの気迫に倣いたい。

その時、マリアはと自分の名前を呼んでくださる馴染みのお声に気づいてラボニ-先生-と、叫びながら主イエスの足下にすがりつこうとした。死なれた主イエスの遺体を捜していたマリアは、ついに復活されて生きておられる主イエスに出会うようになった。しかし、主イエスはマリアの感情を抑えながらこれからご自分の歩まれるべき道を、またマリアが進むべき道をもお示しになった。それは、御父のもとへ上られ、これから兄弟たちと呼ばれることになる弟子たちに聖霊を送ってくださること、そして御父が兄弟たちの父となり、神となられることであった(17節)。一方、マリアに与えられた道は、主イエスの新しい道を弟子たちに告げることであった(18節)。

 死なれた主イエスの遺体を捜していたマリアに語られたように、復活されて生きておられる主イエスは、今も何か頼りになりそうな人やこの世のものを空しく捜しているわたしたち一人一人に「あなたがたよ、何故泣いているのか。誰を捜しているのか」、とお声をかけておられる。主イエスのご復活を喜び祝うこの朝、わたしたちは御言葉を通してわたしたち一人一人の名前を覚え、呼んでくださる復活されて生きておられる主イエスに出会い、その御慰めのお声に癒され、また赦されて、折を得ても得なくても「私は主を見ました」と、宣べ伝える「復活の証人」にあり続けたいと願うのである。

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