心を一つにして

7月21日

牧師 梁 在哲

マタイによる福音書18章15~20節

主イエスは、失われて迷い出た一匹の羊のような「小さな者が一人でも滅びることは、天の父の御心ではない」(14節)と、言われた。その後、罪を犯して信仰の道から離脱して行ってしまったもう一人の失われた兄弟を救いの道に取り戻して来ることこそ、神の御旨であり、同じく遣わされた者としての務めであることをも戒められた。聞き入れなければ、他に一人か二人の証人を通して依然として彼が犯した罪を指摘し、それを悟り、悔い改めるように促す道を示された。それでも聞き入れなければ彼を教会から自ら進んで離れた「教会の外の人」同様に見なしなさいと、言われた(15~17節)。

罪を犯した兄弟のことは、弟子たちの問題となり、最終的に教会の問題となって彼は教会からの勧めを受けるようになる。ここで主イエスは「彼が悔い改めれば彼は天から救われるがそうでなければその罪は地上でそのままつながれ天上でもつながれることになる。」、と言われた(18節)。主イエスより弟子たちの共同体である教会に「罪を赦す権威」が託された。主イエスより教会に「天国への扉の鍵」が託されたゆえに教職と共に信徒全員にも罪を赦す権威が託されている。ただし、それは絶大なもので、人を生かしも、殺しもする、また救われるのか、滅びるかが決まるものである。そのために教会は修養会等を通して牧師は勿論、信徒全員が他の一人一人が本当にキリストの枝としてつながっているように励まねばならない。

私どもの教会の洗礼式は一回限りの罪の赦しであり、聖餐式においてその赦しは繰り返して新たにされ、主日礼拝において罪の赦しが宣言され、世に遣わされる。このように悔い改めて新たにされた二人、たとえ夫妻、親子、兄弟姉妹、隣人同士が「心を一つにする」なら、主イエスの体なる教会が形成され、「全ての民の祈りの家」と呼ばれるようになる(イザヤ56:7)。しかもその祈りは、兄弟の罪の問題に限らず、どんな願いごとであれ、天の父なる神はそれをかなえてくださると、主イエスは言われた(19節)。使徒ペトロと120人が心を一つにして祈りする中、教会は生まれた(使徒1:14)。しかしその数は二人で十分であったのである。

そして主イエスはご自分に結ばれて、救われて、御名によって一人一人が集う教会に共におられることを約束してくださった。私どもの南房教会も22年前にこの館山の地で信仰の先人たちが「心を一つにして」祈りつつ、主の御名によって集うことによって建てられた。キリストの体なる教会は「キリストを我々の望み、信仰の中心にして」主の御名によって集う所である。それは、特定の牧師や有力な信徒のカリスマのようなものを中心にする所ではなくて、キリストを中心にする集いである。私どもの南房教会は、迷い出て失われた者のために、また全ての民のための「祈りの家」として主の御名によって集うことに励んで参りたいと願うのである。

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