神の国にふさわしい者

8月11日

牧師 梁 在哲

ルカによる福音書9章51~62節

主イエスは「天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた」(51節)。この箇所のギリシャ語原文では「お顔を硬い石のようにした」と、記されている。エルサレムへの道は主イエスご自身、お顔を硬い石のようにされるほどのものであった。ところが、主イエスを拒み、その道を妨げているサマリアの村人をヤコブとヨハネは激しく罵った(54節)。しかし、主イエスは彼らサマリアの村人をお叱りになる代りに、ただお顔を硬い石のようにされて別の村の方にひたすら足を運ばれた。その旅の途中、一行のある人が主イエスに「どこでも従って参ります」(57節)と、言った。そこで主イエスは「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが人の子には枕する所もない」(58節)と答えられ、「人々から拒まれているご自分に従うことが如何に苦しい道なのか」と言われた。

また、主イエスは別の人に「私に従いなさい」と、命じられた。すると、その人は「主よ、先ず、父を葬りに行かせて下さい」(59節)と、答えた。その人は主イエスのご命令に勝手に「先ず」と言う条件をつけて答えたので、主イエスは再び「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。あなたは行って、神の国を言い広めなさい」(60節)と命じられた。主イエスのご命令は、親の葬りさえ認めてくれない血も涙もない、冷たく聞えるかも知れない。しかし、主イエスは親の死という悲しい出来事さえ、人間の生死を越える神の救いの中に置かれているゆえに、いかなる出来事をも真実に神にゆだねるように命じられた。主イエスは自分の出来事のすべてを神のみむねに真心をもってゆだねる者におのずと「神の国を言い広める」務めが許されることを言われたのである。

最後の人が自ら進んで「主よ、あなたに従います。しかし、先ず、家族にいとまごいに行かせて下さい」(61節)、と告げた。しかし主イエスは預言者エリヤよりもっと厳しいことを彼に求められた(62節)。主イエスより「私に従いなさい」と言われた人も、「主よ、あなたに従います」と告げた人も、「先ず」という条件をつけたゆえに彼らは「神の国にふさわしくない者」となった。何故ならば「鋤に手をかけてから、後ろを顧ることなく、先ず、神の国を言い広める者」こそ、「神の国にふさわしい者」だからである。私たちも「主に従います」と言いながら「先ず」という条件をつけて自分の十字架を背負って主に従うことを忘れがちな存在であり、主イエスより「私に従いなさい」と言われながら自分の出来事を優先してしまうものではないだろうか。私たちは自分の悲しみや苦しみ、また悩みと恐れをもすべて真心をもって主のみ旨にゆだねつつ、神の国を言い広める群れであり続けたいと願うのである。

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