天国の市民権

10月20日

牧師 梁 在哲

 

 ルカによる福音書 19章11~27節

人々は主イエスより徴税人ザアカイの救いの話を聞き、エルサレムに近づいておられたので、このナザレのイエスこそ、エルサレムで王様になってすぐ神の国が現れると、思い始めた(11節)。そこで、主は彼らの誤った思いを改めただし、ご自分が再び来られるのを忍耐強く待つように「ムナのたとえ話し」を語られた。その背景には、当時ヘロデ王家の政治的な事情があった。歴史家ヨセフスの記述によれば、ヘロデ王の息子アケラオは王の位を受けるためにローマに出発する際、アケラオはお金を渡しておいた。まもなくアケラオの反対者たちは50人をローマに派遣し、王位反対を訴えた。アケラオはローマから王位をもらって帰国した後、自分を支持した者に賞を与え、反対者8千人を虐殺した(27節)と、言われる。

主のたとえ話しにおいて僕らに置かれた状況は、主人が帰国するまでの間、一層厳しいものになっていた。何故なら、彼らは主人より命じられた商売をしなければならなかったうえ、主人に反対する多くの人に囲まれていたからである。主の再臨を待ち望む私たちも何の反対も抵抗もないところで福音を宣べ伝えているわけではない。むしろ、私たちもキリストに敵対する力に囲まれて福音伝道に励みつつ、キリスト者として生きているのではないだろうか。ついに主人は帰って来て僕らがどれだけの利益を上げたかを調べた(15節)。主人より「良い僕だ」と呼ばれた者は、ごく小さな事にも忠実であった。

ところが、「悪い僕だ」と呼ばれた者は、言い訳やうそ、また悪口さえ口にした(21節)。彼は主人の命令に聞き従わなかったうえ、一ムナに恵みの賜物として感謝しなかった。また、主人を厳しい方と思い込み、奴隷のような恐れにとらえられていた。しかし、私たちは御子が父なる神の裁きを御自ら十字架の上で受けられ、全ての呪いから解き放ってくださったゆえに、主が再び来られるのを恐れることなく、「頭をあげて」(ハイデルベルグ信仰問答52番)待ち望むことを許されているのではないだろうか。私たちは「私は既に世に勝っている」と、言われる主のお声に励まされ、主に喜びと信頼をよせ、頭をあげて主の再臨を待ち望みつつ、「天国の市民権」を目指して地上の旅路を歩み続けたいと願うのである。

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