神の助けが必要な人

10月13日

牧師 梁 在哲

 ルカによる福音書 16章19~31節

金に執着するファリサイ派の人々は主イエスのたとえ話しを聴いてあざ笑い、冷ややかな反応を隠さなかった。それをご覧になった主イエスは「金持ちとラザロ」というたとえ話しをされた。その中には贅沢な暮しをしていたある金持ちと、全く反対に貧乏で惨めな日々を送っていたラザロと言う物乞いが登場している(19~21節)。やがて「金持ちとラザロ」の二人に死が訪れるようになった。金持ちは日頃、自分の楽しさや贅沢だけに没頭していて、自分の財産でラザロのような友たちをつくれなかった。

金持ちは自分の金が無くなった時、つまり自分の死後にその友だちが永遠の住まいで自分を迎えてくれることを知らなかった。結局、二人は死んだ後、その立場は逆転して、ラザロは飢えと苦しみからその名前の通り「神が助けてくださる者」つまり「慰められる者」となり、金持ちは楽しさと贅沢から「もだえ苦しみになげく者」となった。金持ちは自分の立場と全く逆転してしまい、しかもアブラハムのすぐ側にいるラザロの姿を見上げで炎の苦しみに耐えられなくなり、大声でアブラハムに向かって叫んだ(24節)。

そこでアブラハムは答えた。あなたは有り余る財産を「自分の良いもの」として選び、受けながらラザロのような貧しい者を助けあげて、友だちをつくるような「他の良いもの」を選ばなかった。しかし、ラザロがもらっていた悪いものは彼の罪や愚かな選択の結果のものではないゆえに、彼は慰めを受けているが、あなたはもだえ苦しんでいる(25節)と。ファリサイ派の人々は自分たちの財産を神からいただいた祝福のしるしとして受けとめ、貧しさはむしろ、神の裁きのしるしとして考えていたので、彼らは自分たちと貧しい人々との間に深い溝が置かれていると、信じこんでいた。

しかし、主イエスはアブラハムとラザロの二人と金持ちの間には、渡ることも越えて来ることのできない大きな淵が置かれていると、言われた(26節)。ところが、父なる神とその罪のゆえに死ぬべき私たちの間にも超えることも、渡ることのできない深い溝、大きな淵が置かれている。そこで父なる神は、御子イエス・キリストの十字架という大きな橋を架けてくださり、私たちに「神が助けてくださる」、すなわちラザロと名付けてくださった。私たちは「ラザロ」と名付けられた者として未だにも主のご活を信じるどころか、耳を傾けようともせず、拒み続けている「神の助けが必要な人」に主の十字架の贖いとご活を証し続ける者でありたいと願うのである

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