見守る主のまなざし

10月6日

牧師 梁 在哲

 ルカによる福音書 16章1~13節

主イエスはついに弟子たちにも語り始められた。それは管理人の不正が告げ口によって暴露される出来事から始まる例え話しであった。主人は急いで彼を呼びつけて言った。「会計の報告を出しなさい」 (2節)と。そこで正な管理人は今まで築いてきたものを全て失ってしまう状況の中で残されていた少しだけの時間を生かして色々な考えを頭の中であれこれ巡らせた(4節)。彼は債務者たちを自分のもとへ呼び出し、債務の証文の中身を債務者自身の直筆で書き直すように働きかけた。その大胆な、しかもずる賢いやリ方で正な管理人は破滅寸前から自分の将来を安全で確かなものにした。彼の抜け目のないやり方を見た主人は彼を首にする以外、何もなすすべが見つけられなかった。

主イエスはこの例え話しを通して弟子たちに、また聴いている全ての者が直面している神の厳しい裁きのことを言われたのである。主イエスはその正な管理人が直面していた状況よりもっと厳しい状況、つまり神の裁きがが、例え話しを聴いているあなたがたの目の前に置かれていることを言われたのだ。それゆえ、主イエスはそのような厳しい状況の中であなたがた「光の子ら」は、「この世の子ら」よりもっと素早く、もっと賢く振る舞わないと、避けることのできない神の厳しい裁きに直面する事を言われた。それゆえ、主イエスは「正にまみれた富で、友たちを作りなさい」(9節)と、言われた。友たちとは預言者アモスが預言した終りの日の「農民」たち(アモス8:4)に他ならないものである。

そして主イエスは「ごく小さなこと」さえ、忠実に扱うことのできない者は本当に価値のあるもの、つまり天の国の事を受け継ぐことをもできないと、言われた。何故ならば神にとって世の「正にまみれた富」は、「ごく小さなこと」だからである。また、主イエスは世の富はあなたがたのものではなくて「他人のもの」、つまり「神のもの」であるがゆえに、「神のもの」に忠実でなければ神は私たちに「私たちのもの」を与えてくれないことをも言われた(10~12節)。

父なる神はどんな召し使いも二人の主人に仕えることが出来ないことと同じように我たちに全き献身と従順を願っておられる(13節)。我たちは父なる神から自分の力に応じてそれぞれの賜物を預けられており、それをよく管理するように託されている管理人ではないだろうか。たとえ、我たちが不正な管理人のような者であっても父なる神は御子イエスを通して忍耐をもって我たち一人一人を見守ってくださる。我たちは父なる神から委ねられた良い管理人の務めを、全てにおいて全てのことを見守ってくださる御子イエス・キリストのまなざしを仰ぎつつ、忠実に全うする者となりたいと願うのである。

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