破れぬ新しい関係

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牧師 梁 在哲

 

創世記37章12~28節  ルカによる福音書 15章1~32節

聖書は誤った自由のため、放蕩して過ちを犯してしまうことと同じように神からの干涉を嫌がって離れて行くことを人間の罪だと明らかにしている。まるで弓から放たれて的から外れた矢のように神から遠く離れている人間の罪をエフェソの信徒への手紙の記者はこう証した。「しかし、あなたがたは、以前は遠く離れていたが、今やキリスト・イエスに於いてキリストの血によって近い者となったのです」(エフェソ2:13)。それゆえ、主イエスは真の自由は神においてのみあるもので、神から離れることは罪となり、神との関係は破れてしまうと例えられた。

放蕩息子は父親から財産を受けて何日も立たないうちに遠い国の方へ旅立ち、そこで放蕩の限りの暮しぶりをして財産を無馱遣いしてしまった(12~13節)。彼はどん底の惨めな経験をした後、今までの暮しが我から離れて狂ったものであったことに気づき、我に返って自分を愛してくれる父のもとに立ち帰ろうとしていた(17~18節)。もう自分は息子と呼ばれる資格もない、ただ雇い人の一人でも構わないと、打ち碎かれた心で彼は故鄕の父親のもとに足を運んだ(19~20節)。しかし、父親は、息子の変わり果てた姿をまだ遠く離れていたにも拘わらず息子より先に気付き、走り寄って息子の首を抱いてせっぷんした(20節)。

父親は全てにおいて息子より先に動いて、愛をもって全てのことを赦したのである。そして息子の詫びの言葉が全部終わる前に彼の口からそれ以上恥ずかしい告白が出ないように口を塞ぎ僕たちに命令を下した。(22~23節)。父親は忍耐強く愛をもって息子が本当に自分の罪に気づいて帰って来るのを待っていたのである。ところで、父親の愛と忍耐とは裏腹に長男は怒りをあらわにした(28~30節)。彼の怒りは、自分はいつも正しくて自分自身を絶対化し、いつの間にか自分が神となって全てのことを判断してしまうものであった。それはヤコブの子ヨセフに向けられた兄弟たちの憎しみと怒り(創世記37:20)にさかのぼるほど根強いものであった。

しかし、破られた親子関係を新しく回復したのは、公平や理屈を言いながらあらわにした長男の怒りではなくて、父親の忍耐強い愛によるものであった。父なる神は、的から外れた矢のように遠く離れている私たちを忍耐強い愛をもってお赦しになった。父なる神は御子イエス・キリストの血潮の贖いによって破れない全く新しい関係を回復してくださった(エフェソ2:13)。その独り子を十字架の死にいたるまで惜しまずお与えになられて「破れぬ新しい関係」を回復してくださった父なる神は、今も遠く離れている者を愛をもって忍耐強く待っておられるのである。

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