神が払われた費用

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牧師 梁 在哲

 

ルカによる福音書 14章25~35節

エルサレムに向かって旅を続けられるご自分を大勢の群衆がついて来たので主イエスは振り向いて言われた(25節)。彼らはそれぞれの思いをもって主について来た。それは死んだ者を生き返らせてくださった驚くべき奇跡や、五つのパンと二匹の魚の奇跡、そしてファリサイ派などユダヤ敎の指導者たちと真正面からぶつかることさえ、辞さない主のお姿への思いであった。しかし群れの心を揺さぶる破格のことを主は言われた。それは「ご自分の歩まれる道、あなたたちが一緖に步もうとしている道」、つまり「弟子の道」のことであった。

一体、誰が自分に従おうとしている者にあなたがたの家族は勿論、あなたの命さえも憎みなさいと、求めるだろうか。しかし主イエスは決して憎みだけを言われたわけではない。家族や自分の命への愛さえも主イエスを愛して従う道に比べると、それはむしろ憎みに近いほどのものでなければならないことを言われたのである(26節)。家族への愛(サムエル記下19:1)は、人間にとって今も昔も変わらないことのゆえに、主イエスはそれを憎みなさいと言われたわけではないのである。

主イエスはご自分より召されて弟子の道へ一歩足を踏み切ろうとする者は、それに相応しい費用を綿密に計算して(28節)、払わなければならないことをも言われた。その費用は先ず、主イエスへの愛のためなら自分の命さえ憎み、自分の十字架を背負って死を覚悟し(27節)、自分の持ち物を一切捨てる(33節)ことであった。それらのことをカルヴァンはこう証した。「彼ら自身の命とか肉体のあらゆる欲求よりもキリストを強く愛している人はことごとく捨て切っている」と。主イエスはご自分への愛が塩に豊かな味をもたらし、それを失った者は塩味を失った塩のような者であることをも例えられた(34~35節)。

「私に従いなさい」と、命じられる主イエスのお召しは恵みによるもので何らかの条件を満たした者が召されるものではない。そして私たちは主イエスのお召しのみ言葉に応じて洗礼を受けてキリストの体である教会の一員となり、主イエスの弟子となることが許されるのである。主イエスより召されることなく弟子になることは出来ないゆえに、私たちは主日礼拝ごとに「教会は主キリストの体にして恵みにより召されたる者の集ひなり」と、日本基督教団信仰告白を唱え続けるのである。

父なる神は愛する御子の命さえも惜しまず十字架の上で私たちの罪の贖いのために費用を払われた。その驚くべき費用のことを信じようとしない者にまた、ご自分の弟子の道に入るために払わなければならない費用のことでためらっている者に主イエスは確かなお召しのみ言葉を語りかけてくださる。「私に従いなさい」と。私たちは主イエスのお召しのみ言葉に励まされつつ、世の光と地の塩の努めを携えて主イエスへの愛に生きる弟子の道を全うする者でありたいと願うのである。

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