喜びの席に招かれる者

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牧師 梁 在哲

 

ルカによる福音書 14章7 ~14節

主イエスが水腫を患っていた人を癒してくださったのは食事の前の出来事で、食事が始まったその時、客たちは競うように上席のほうを選んだ。その様子をご覧になった主イエスは末席に着くようにたとえを話された(8節)。主イエスはそのような小さな行為の中に表われる彼らの本心を観察された。プルターク英雄伝の著者プルタークも「小さな行為の中に人の性質や性格は非常に正確に反映されるのだ」と、人間模様を観察した。ユダヤの宴席はアルファベットの「U」字のような形で、開かれている所は侍従が出入りし、三つの席の中で中央が上席、二番目はその左側、そして右側が末席となっていた。冠婚葬祭の際、婚礼の儀式は最も重んじられて上下の席を明確にした。特にファリサイ派の人は上席を好み、自分より身分の高い人が招かれた際、その人を招いた主人より「この方に席を譲ってください」(9節)と、言われ恥をかく場合が多かった、と伝えられている。

また、主イエスは「誰でも高ぶるものは低くされへりくだる者は高められる」(11節)と、たとえられた。使徒パウロも真心こめてへりくだり、自分を「小さい者(パウロ)」と見なし(コリントⅠ15:8~9)、末席に座る者に復活された主イエスは現われて、そのような者を神は高くあげられることを証した。父なる神は「へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順であられた御子主イエスを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになった」(フィリピ2:8)。続いて主イエスは、招いてくれる人へのたとえをも話された。宴会を催すときには、お返しをするかもしれない人々ではなくて、貧しくて体の不自由な人、すなわち「お返しができない人々を招きなさい(13節)」と、言われた。主イエスはただ、神に対してのみ正しいことを行い、人にはお返しを求めないように、ひいては「右手のやることを左手が知らないように」(マタイ6:3)言われた。

ところが、父なる神は御子イエス・キリストを通して御招きにお返しすることのできない私たちをも招いてくださった。それゆえ父なる神が主人であられる神の国では誰一人もその御招きにお返しすることはできないのである。この「喜びの席に招かれる者」は如何に幸いであろうか。主イエスは我々に招きにお返しすることのできない人々を天の国の食事に招きなさいと、お命じになる。それゆえ、教会は彼らの世話をする「ホスピタリティー」を委ねられており、ヘブライ人への手紙の記者も、その招きにお返しすることのできない人への愛を証した(ヘブライ13:1~2)。御招きにお返しすることのできない私たちを父なる神は、御子イエス・キリストを通して招いてくださった。それゆえ我々はその「喜びの席に招かれる者」として主イエスのへりくだったお姿に倣いつつ、招きにお返しすることのできない旅人、よその者、見知らぬ者を天の国の食卓に招き続ける者でありたいと願うのである。

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