主の愛の勝利

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牧師 梁 在哲

 

ルカによる福音書 14章1 ~6節

安息日をめぐって主イエスと律法学者やファリサイ派との葛藤は、益々激しくなり、その溝は埋めることの出来ない程、深いものとなりつつある中で、安息日に主イエスはファリサイ派のある議員から食事に招かれてその人の家にお入りになった。しかし、ファリサイ派の人は心、主イエスが安息日の掟を破る現場を捕らえようと、陰謀をめぐらしていた(1節)。その時、主イエスの前に水腫を患っている人がいた。そこで主イエスは彼らに「安息日に病気を治すことは律法で許されているか、いないか」(3節)と、言われた。主イエスは18年間、腰が曲がったまま、病の霊に取りつかれていた女性を癒された際にも、同じことをお聞きになられた。

しかし、ファリサイ派の人々は皆黙っていた。多分、彼らは主イエスがこの病人を癒して下さることを、既に予測していたからではないだろうか。ただ、主イエスはその病人の手を取って、病気を癒して下さってお帰しになった。自分の民には厳しい律法の重荷を負わせながらもファリサイ派の人々は自分勝手な都合に合わせた例外を造り続けた。だから主イエスは、その矛盾を厳しく突き込んで言われた(5節)ゆえに彼らはただ、何も答えなくなった。このように安息日に主イエスは、彼らの思いをはるかに越える権威をもって彼らを沈黙させられ限りない愛をもって病人を癒して下さった。

主イエスは今まで感じることの出来なかった新しい経験を人々にお与えになった。それは主イエスを何とかいしようとしていた者には、恥をかいて沈黙させるものであり、「主の愛の勝利」にあずからせて頂いた者には、苦しみから解き放たれて全く新しい安息日となるものであった。へブライ人への手紙の記者も、天地万物を創造された後に、休まれる神の安息のお姿こそ、主イエスを信じる者が倣うべきものであることを証している(へブライ4:911)。たとえ、世の人々は、空しいものに賴って安らぎだけを追い求めていても、主イエスを信じる者は、信仰によって神が共におられる真の安息にあずかることが許されるのである。

その日、父なる神は御子主イエスを通して愛の勝利をお示しになり、人々にはご自分の愛の御心が伝えられたのである。安息日が終わり、週の初めの日に初代教会の人々は皆、集まって主のご復活を記念し、パンを裂き、聖徒の交わりを分かち合った。主の日こそ、私たちの罪を贖って下さり、永遠の安息にあずかることを約束して下さった、まことの安息日であるからではないだろうか。私たちは、私たちを罪と死から解き放って下さる永遠の安息の主、主イエスのお姿に倣って行くそのような信仰の道を全うする者となりたいと願うのである。

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