主は我らの救い

11月24日

牧師 梁 在哲

 

エレミヤ書23章1~8節  ヨハネによる福音書18章33~40節

私どものプロテスタント教会は、主イエスを信じる信仰告白の上に建てられ、いにしえの預言者と使徒たちは、代々の教会の基礎となっている。特に、神の御言葉をイスラエルの民に告げる上で預言者たちが直面した戦いと苦悩は、教会にとってかけがえのない教えと支えになると言われる。彼らに臨まれた神の御言葉は、時間と空間を超えて私たちに語りかけている。ゆえに、今日の礼拝は魂を生き返らせる神の力に満たされる。エレミヤはヨシヤ王の時代13年、神の御言葉に臨まれて、エルサレムが滅亡するまで戦い、苦悩し続けた南ユダの預言者であった。彼はエルサレムが滅ぼされ民がバビロン捕囚となることを預言し、キリストに最も似ている預言者だと、見なされた(マタイ16:14)。神の御言葉が彼に臨まれた時、それは「岩を打ち砕く槌、もみ殻を燃やす火のようなもの」であった(エレミヤ23:29)。

しかし、エレミヤはユダの指導者たちの悪い行いのゆえにイスラエルの民がバビロン捕囚となることにとどまらず、指導者たちは神の報いを受けるが、「群れの残った羊」、捕囚の民はエルサレムに帰って来ることをも預言した(1~4節)。そしてエレミヤは、真っ暗な夜に輝く空の星のような望みをも示した。彼は差し迫っている滅亡の危機の中で、大きな希望の日を民に告げた(5~6節)。その日、救い主メシアは、良い牧者、正しい若枝、義なる王として世に来られる。救い主は、ダビデの子孫、「正しい若枝」として生まれ、その若枝は柔らくとも活力に満ちて、弱く見られても生命に溢れている。キリストは「正しい若枝」として世に来られて罪に定められた人を十字架の血潮によって神の御前に正しい人にしてくださる。何故なら主ご自身、義なるお方で私たちを神の御前に正しい者としてくださるからである。

それゆえ、「ユダは救われ、イスラエルは安らかに住み、彼の名は『主は我らの救い』と呼ばれる」(6節)。真の救いは神の御前に正しい者とされることにある。ゆえに、「正しい若枝」は「主は我らの救い‐ヨシュア・イエス‐」に他ならない。主イエスは、十字架の血潮によって罪と死に打ち勝たれてエレミヤの救いの預言は、主において成就された。エレミヤは一寸先は闇のような絶望の時代の中で、岩を打ち砕く槌のように、またもみ殻を燃やす火のように、臨まれた神の御言葉とみ旨に信頼を寄せ続けて来た。私どもの教会は、神の御言葉を世に伝えつつ、それを悟らずにいる人々のために執り成しの祈りを捧げ続ける。この地上の旅路がたとえ、苦しくて悲しみや悩みに満ちていても私たちは、預言者を通して出会う神の御言葉に依り頼りつつ、そのみ旨より喜びを見出し、前進して行きたいと願うのである。

前回 目次へ 次回