王となられる主

12月1日

牧師 梁 在哲

イザヤ書52章1~10節    ヨハネによる福音書7章25~31節

私どものプロテスタント教会にとって、いにしえの預言者と使徒たちは、教会の礎となっている。その中で預言者イザヤは、キリストの誕生、油注がれた王として、また苦難の僕として復活され、再臨に至るまで預言した。殊に「苦難の僕」として来られるキリストを預言したゆえに、彼は十字架の下で預言したと、言われる。彼は北イスラエル王国がアッシリアによって滅ぼされる最も混乱な時期に活動し、預言者エレミヤより1世紀前の預言者であった。イスラエルの民は最初、ヤコブの時代に飢饉のため自らエジプトにくだり、結局、奴隷となり、そこで厳しく追い詰められ、次々とアッシリアとバビロンの捕囚となる迫害を受け続けて来た。しかし、異邦人の奴隷となって迫害を受ける度に神は、彼らを救ってくださった。そして、神はご自分の民をバビロンから救ってくださり、エルサレムは回復され、ご自分の御名のため彼らを救われ(1~6節)、救いの日の幻(7~12節)を示された。

それゆえ、イザヤはそのような絶望的な現実の中で預言したのである。エルサレムは奴隷の疲れた衣を脱ぎ捨て、栄光に輝く衣をまとい、昔の栄光を取り戻し、聖なる都になって無割礼の汚れた者は入れない。使徒ペトロもキリストにあって全ての聖徒らは清められ、聖なる教会を造り上げる幻を見た(使徒10:15)。ここでイザヤは、救いの日の幻によって良い知らせを伝える者の美しい「姿と見張りの歌」(7~8節)を、そしてエルサレムも一緒に歓喜の歌を歌うことを勧めている(9~10節)。耳を傾けてその声を聴きながら目をあげてその姿と足を見れば、その声はまさに良い知らせであり、その足は、如何に美しいことか。エルサレムはあっという間に歓喜の歌に包まれた。それは来るべきキリストの良い知らせに他ならない。使徒パウロも「御父より遣わされた御子イエス・キリスト」(ヨハネ7:29)の福音を宣べ伝える使徒たち‐遣わされた者‐の姿を証した(ローマ10:15)。

山々を超えて遣わされて来た者を先に見つけて、彼らが伝えた良い知らせを聞いたエルサレムの見張りは、一斉に叫び、歓喜の歌を歌った。神がご自身の民を慰められ、捕囚から解放してくださり、その都を回復してくださったからである。その見張りとは当時の預言者たちであるが、真の見張りは、御父より遣わされた御子キリストを正しく知り、福音を正しく悟るようになった聖徒らではないだろうか。神は諸々の国が見守る中で、ペルシャを起こしてバビロンを滅ぼし、捕囚となっていたイスラエルの民を解放してくださった(10節)。それはキリストの福音が「地の果てまで伝えられ、全ての民がそれを知るようになる」(使徒1:8)出来事の影である。このアドベントの時、主より遣わされた者として私たちは、罪と死と暗闇の力を打ち破られ、勝利され、「王となられる主」の来臨を待ち望みたいと願うのである。

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