神ご自身の証し

12月8日

牧師 梁 在哲

列王記上22章18~28節   ヨハネによる福音書5章36~47節

主イエスは人々の救いのためにご自分の証しについて言われた(ヨハネ5:34)。それはご自身が行っている業で、洗礼者ヨハネより優るものであった。何故なら、それは御父より委ねられたご自身の業であり、御父が御子をお遣わしになったことを証ししているからである(36節)。また、主は御父がいにしえの預言者たちを通して語られた御子への証しについて言われた。しかし、人々は預言者たちによって語られる御父の証しのお声を聴けなかった(37節)。御父より遣わされた御子を信じないゆえに、彼らは神の御言葉を道端に落ちた種のように鳥に取られてしまい、自分のうちにとどめていなかった(38節)。そして主は、聖書から永遠の命を得ようとしながらも、永遠の命そのものであるご自分のところへ来ようとしない彼らを戒められた(39~40節)。正に人間は、得ようと努力しながらも、自分が何を得ようとしているのかを知らない愚かで弱い存在ではないだろうか。

主は、人の栄光や誉れを避けられ(41節)、最も苦しい立場を甘んじて受けられた。そのような証しもご自分の栄光のためではなく、彼らの救いのためにお与えになるものである(34節)。御子の栄光は、ただ、御父より委ねられた御業を十字架とご復活を通して成し遂げられることにある。神を愛さない者は、神からの誉を求めず、て移り変わる空しい人の誉を求める(44節)。しかし、預言者ミカヤは、人に誉を求めず、真実で永遠なる神の誉を願った。北イスラエルのアハブ王は、ラモト・ギレアドを奪還するために南ユダの王ヨシャファトと連合して出陣する際、神に御旨をたずねた。その際、他の400人の預言者たちは勝利を預言した(列王上22:6、12)。それはひたすら人の機嫌をとり、誉だけを求める預言に過ぎなかった。しかし、ミカヤはイスラエルの軍隊は羊飼いのない羊の群れのように破れ、アハブ王は戦死することを預言した(列王上22:28)。

ユダヤ人たちは、その不信仰のゆえに、モーセによって罪に定められるようになる(45節)。彼らの矛盾は、自分たちが信じていたモーセの証しさえ、信じなかったことにある。そのような彼らが、聖書が証しているキリストのことを信じるはずがない(47節)。モーセの証しは、文字で綴られているものである。それは切り倒された枯れ木のようなものである。それゆえ、父なる神は、「ご自身の証し」として御子を世にお遣わしになり、ご自分の御業を御子に委ねられた。そして御子は、十字架とご復活を通してその御業を成し遂げられた。「神ご自身の証し」は、残された根から芽生えて来るエッサイの正しい若枝のようなものである。私たちは主の十字架とご復活を証しすることを恥としないで(テモテⅠ6:12、テモテⅡ1:8)、聖霊なる神の力に支えられつつ、信仰の善き戦いを戦い抜きたいと願うのである。

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