キリストの熱意

2月2日の説教

牧師 梁 在哲

列王記上8章22~30節   ヨハネによる福音書2章13~25節

イスラエルは、過越祭、五旬節、仮庵祭と言われる3大祭りを守り、主イエスもそれを忠実に守られた。殊に、ヨハネによる福音書は、主が三度にわたって過越祭を守られたと、伝えている。何故なら、主ご自身、イスラエルの民がエジプトの国を出る際、屠られた過越の小羊でおられたからである。神の災いでエジプト全土の初子が撃たれる中、イスラエルの民は、鴨居と入り口の二本の柱に小羊の血を塗り、神はその家を過ぎ越し、救われた。過越祭が近づいてユダヤ人たちは、自分の身を清める間、主はご自分のお体である神殿を清められた(13~16節)。

なぜなら、神殿の境内で、祭司長と商人たちが結託して私腹を肥やしている彼らの不義をご覧になったからである。「過越祭の小羊」でおられる主は、それと同時に最後の裁きの時、「怒りの小羊」でおられる(ヨハネ黙示録6:16~17)。弟子たちもその光景を見て、「あなたの家を思う熱意がわたしを食い尽くす」と書いてある(詩編69:10)のを思い出した(17節)。「キリストの熱意」は、「ご自分の満足はお求めにならず、ふりかかって来る嘲る者の嘲りやそしる者のそしりを受け入れられ」(ローマ15:3)、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまでご自分を使い果たされたものであった。

ところが、そのような「キリストの熱意」の前で、喧嘩を売るような口調で主に挑む(18節、20節)者があれば、「主がなさったしるしを見て、イエスの名を信じる者も多かった」(23節)。しかし、「何が人間の心の中にあるかをよく知っておられる」(25節)主は、彼らを信用されなかった(24節)。なぜなら、主ご自身、人間の証をもらう必要のない最後の審判の時の裁き主、「怒りの小羊」でおられ、それゆえに彼らの証は、片思いに過ぎなかったからである。主は、ご自分の十字架の道を備え整えられるために過越祭の時、ご自分のお体であられる神殿を清められた。

主の神殿の清めはご自分の十字架によって完成され、三日目に死人の中よりよみがえられたご自分のお体こそ、「まことの神殿」となられた。何が人間の心の中にあるかをよく知っておられる主は、私たちの価値観や生きがい、また何が私たちの「生活の中心」になっているかをもご存じでおられる。私たちは、「キリストの熱意」にならって「生活の中心」を命の源を与えてくださる主日礼拝におき、また復活された主のお体なる「まことの神殿」でささげるまことの礼拝にあずかりたいと願う。

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