人の子を上げた時

2月9日の説教

牧師 梁 在哲

ヨブ記22章11~28節   ヨハネによる福音書8章21~30節

主イエスは仮庵祭が終わった後、再び神殿の境内で、人々の罪を贖うために御自ら十字架の道へ進まれると、言われた。そしてユダヤ人たちは空しく救い主を捜すだけで結局、彼らの罪は赦されないまま、罪のうちに死ぬことになる、と言われた(21節)。彼らは主の厳しい戒めの言葉には目をつぶり、あざけるような反応を示し、良心の呵責を避けた(22節)。そのような彼らに主は繰り返して言われた。「自分は世に属していないが、世を救うために来た。もし、自分のことを信じないならば、あなたがたの行き着くところは、罪の内に死ぬことである」(23~24節)と。ところが、いくら主が御父について話されても、彼らユダヤ人たちは、悟らなかった(26~27節)。そこで、主は言われた。 「あなたたちは、人の子を上げたときに初めて、 『わたしはある 』ということ、 また、わたしが、 自分勝手には何もせず、ただ、父に敎えられたとおりに話していることが分かるだろう」(28節)。

主は死に至るまで、それも十字架の死の死に至るまで御父に従順でおられた。主はモーセが荒れ野で蛇を上げた(民数記21:9)ように、ご自分も上げられて、十字架の死を通して御父の御旨を成就するために世に来られたと、言われた(ヨハネ3:14~17)。しかし、ユダヤ人たちが人の子を上げた時、彼らは自分たちが天にまで上げられるとでも思い込み、陰府にまで落とされるとは、思わなかった(ルカ10:15)。主を十字架につけた後、聖霊が彼らの心にペトロの福音の説教を通して信仰を呼び起こし、それを悟り、胸を打ち、悔い改めるようになった(使徒2:36~37)。信仰は自分の力で決断するから生じるものではなく、聖霊が心を開き、信頼を与えてくださるからこそ、信仰が生じるのである。それゆえ、主は、仮庵祭の終りの日に立ち上がってご自分を信じる人々が受けようとしている生きた水、即ち聖霊をご自分の所に来て飲みなさいと、大声で叫ばれた(ヨハネ7:37~39)。

宗教改革者カルヴァンは、私たちの信仰の根拠が自分ではなく主イエスにあることをこう述べた。「我々は自分が信仰に値しない者であることを知ることによってのみ、信仰に値する者となる」と。それゆえ、「私たちが父なる神を信じる前に主は、父なる神を信じる人間となっていてくださった」。御子は絶えず、御心に適うことを行い(29節)、ひいては、十字架の死に至るまで父なる神を信じる人間となられた。それゆえ、私たちをも父なる神を信じる人間となることを許される。主はユダヤ人が聞く耳を持たないことをよくご存じながら、彼らに語られるべきことを、また聞くべきことを語られ、多くの人々が主を信じるようになった(30節)。私たちは自分の信仰によって生きるのではなくて、御子主イエスが父なる神を信じ給うことによってのみ生きる。そして、主の十字架の仰ぎつつ、聖霊の御助けが私たちの心に主の福音の説教によって信仰を呼び起こし、また聖礼典(聖餐・洗礼)を通して信仰を堅くしてくださるよう切に願う。

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