良くなりたいか

2月16日の説教

牧師 梁 在哲

ヨブ記23章1~10節   ヨハネによる福音書5章1~18節

主イエスはユダヤ人のプリム祭があったので、エルサレムに上られた。エルサレムには、羊の門の傍らに「ベトザタ 」と呼ばれる池があり、その意味は、「慈しみの家」であった。そこには日照りを遮る五つの回廊があって、病気の人、目の見えない人、足の不自由な人、体の麻痺した人などが大勢横たわっていた。そこに38年も病気で苦しんでいる人がいた(1~5節)。その人は、動くことも出来なければ、付き添う者もいないので、治る可能性が、ほぼゼロに近い絶望的な日々を過ごしていた。人々は、そのような彼に目もくれなければ、見向きもしなかった。ところが、ある日、彼は、自分に注がれる視線を感じた。それは慈しみと愛に満ち溢れたものであった。そのような暖かい視線を受けたか、微かな記憶さえない彼は、すぐ主の視線を感じたのである。

「人々に軽蔑され、見捨てられ、多くの痛みを負い、病を知っている」(イザヤ53:3)、「苦難の僕」として来られた主は、彼の病と痛みを既にご存じのゆえに、慈しみの眼差しで彼をご覧になり、「良くなりたいか」と言われた(5~6節)。主のお声は、石にように固くなって、氷のように冷たくなっていた彼の心に確かな望みを引き起こしてくださった。主の暖かい眼差しとお声に彼は、今まで胸に溜っていたうっぷんを晴らした(7節)。全ての話をお聞きになった主は言われた。「起き上がりなさい。床を担いで步きなさい」と(8節)。「苦難の僕」として来られて、「私たちの病を担って、私たちに痛みを負ってくださった」(イザヤ53:4)主は、彼の病を良くご存じのゆえに(イザヤ53:3)、彼の病を担い、痛みを負ってくださった。主の慈しみと愛の眼差しを受け、また主のお声を聞いて、38年間、絶望の中で苦しんでいた彼の心は、熱くなり、すぐに良くなって、床を担いで步きだした(9節)。

それは何か理屈で説明し、説得されるものではなく、聖霊のお働きによるものであり、聖霊のお働きによって彼の心に信仰が訪れた時、主のみ力も共に伝えられた。彼は自分の体全体に燃えるようなものを覚え、全身に力が伝えられ、自分の手を伸ばして主に握っていただくように、全てのことを主に委ねたゆえに、癒された(イザヤ53:5)。常に主の道を求めている私たちの歩みも、自分一人では予測できない不安や緊張の日々かも知れない。しかし、主は昨日も、今日も、また将来も、いつも変わることのない慈しみと愛の眼差しで私たちをご覧になり、過ちを起こし、失敗して落胆し、また慌てて右往左往する時でさえ、主は確かな道をお示しになり、言われる。「良くなりたいか」と。そして落ち込み躓いている時にも主は「起き上がって歩きなさい」と、命じられる。私たちは、主のお声に励まされ、全てのことを主に委ねつつ、起き上がって、地上の旅路を雄々しく歩んで行きたいと願う。

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