主の葬りの日のために

3月22日の説教

牧師 梁 在哲

サムエル記上9章27~10章7節    ヨハネによる福音書12章1~8節

主イエスは、地上の最後の過越祭の六日前に弟子たちと共にエルサレムに向かわれ、十字架への道に進まれた。主と一行は、金曜日の夜、安息日が始まる時にエルサレムに近いベタニアに着いた。そして土曜日の夜、安息日が終わる頃、主のためにそこで夕食が用意され、マルタは給仕をし、ラザロは主と共に食事の席にいた。その家はマリアの家ではなく、主より重い皮膚病を癒されたシモンの家であった(マタイ26:6)。恐らくその夕食はマルタとシモン、また主を信じるようになった人々も一緒に力を合わせて開いたものであった。その時、マリアは純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ持って来て、主の足に塗り、結んでいた自分の髪の毛をほぐして主の足をぬぐったので、家は香油の香りでいっぱいになった。マリアは真心と自分の持っていた最も大事なものを惜しまず、主に捧げた。

ところが、彼女の献身的な仕えも、また主の御心も、イスカリオテのユダには、納得できないことであった。マリアが真心をもって捧げた香油の香りさえ、ユダには憤りを起こすだけのものであった。彼は施しを建前にしたが、自身は私腹を肥やし、金銭をだまし取ろうとした盗人であったからである(5~6節)。ここで主は、ユダが口を挟まないようにこう言われた。「この人のするままにさせておきなさい。私の葬りの日のために、それを取って置いたのだから。貧しい人々はいつもあなたがたと一緖にいるが、わたしはいつも一緖にいるわけではない」(7節)と。ユダヤ人たちは葬りの際、遺体に油を塗る慣習があり、その香油もラザロが死んだ時、買って置いた物かも知れない。不思議なことに彼女は、その香油を前もって主のお体に塗ったのである。しかし、彼女が主の死を前もって知っていたとは、考えづらい。ただ、マリアは、主を愛する思いの切実さの余り、そうしたと思われる。

それにも関わらず、主はマリアの行動を高く受け止めてくださり、こう言われた。「貧しい人々はいつもあなたがたと 一緖にいるが、わたしはいつも一緖にいるわけではない」(8節)と。主は、決して貧しい人々のための施しを軽んじられた訳ではない。主は人間の施しを遥かに超えるものを言われたのだ。それは神の独り子が、世に来られて、私たち人間の罪のために十字架で亡くなられた一回限りの出来事である。マリアは一回限りの「主の葬りの日のために」高価な香油を主の頭に注ぎ、また主の足に塗ったのである。私どもの南房教会は、教会標語を、「ペトロの手紙一4章10節」に因んで「善い管理者として互いに仕える教会」と、掲げて、新年度迎えようとしている。しかし、私たちは単なる神の善い管理者ではなく、一回限りの2020年度を治めてくださる神の善い管理者として励まねばならない。マリアは、一回限りの「主の葬りの日のために」真心をもって主の足に香油を塗り、主に仕えた。私たちも、一回限りの2020年度を管理してくださる神の善い僕として一回限りの主の十字架とご復活の出来事を証しつつ、宣べ伝え続けたいと切に願う。

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