永遠の命をもたらす一粒の麦

3月29日の説教

牧師 梁 在哲

イザヤ書63章1~9節    ヨハネによる福音書12章20~26節

主イエスへのファリサイ派の人々の警戒心が、一層高まっていた(19節)、ちょうどその時、異邦人の代名詞と呼ばれていた(ローマ1:16)何人かの敬虔なギリシア人が、礼拝するためにエルサレムに上って来た(20節)。彼らは、ガリラヤのベトサイダ出身のフィリポのもとへ来て、「お願いです。イエスにお目にかかりたいのです」と頼んだ(21節)。彼らは、弟子であるフィリポを先生と呼ぶほどに、主への尊敬心を表わした。彼らが主を訪ねて来た理由は、ただ一つ、「救い」以外、他のことは見当たらない。主は人間の心の奥底にあるものにまでご覧になり、触れておられるゆえにこう答えられた。「人の子が栄光を受ける時が来た」(23節)と。

彼らの願いや面談が叶われたか、どうかは定かではない。しかし、主はユダヤ人の不信仰と異邦人たちの信仰をご覧になり、複雑な心境でご自分に迫って来る十字架の道を言われた。使徒パウロも、救いは先ず異邦人に、次にユダヤ人に及ぶことを証した(ローマ11:25~26)。ここで主は、ご自分の十字架の死を通してすべての人々に永遠の命を与えることを明白に例えられた。「はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」(24節)と。主の十字架の死は、永遠の命に至る唯一の道であり、主を信じるすべての人々に栄光と「永遠の命をもたらす一粒の麦」である。

ところが、人間の社会が、依然として「犠牲の羊」を生み出している中で、代々の教会は、主の十字架の死とご復活を救いと永遠の命の根拠(コリントⅠ15:35~37)として宣べ続けて来た。なぜなら、主の十字架の死こそ、私たちの救いのために捧げられた、「一回限りの完全な犠牲」だからである。それゆえ、私たちにも犠牲が求められた。自分の命を主より愛する者は、保とうとしていた命さえ、失われる(25節)。しかし、主の道に従い、世の権力や誉れの道ではなく、自分の十字架の道を歩む者を、父なる神は、大切にしてくださる(26節)。十字架の上でご自分を「一回限りの完全な犠牲」として捧げられた「御子なる神」、御子に従い、仕える者を大切にしてくださる「父なる神」、弱い私たちが自分の十字架を背負い、主に従い、仕えるよう助けてくださる「聖霊なる三位一体の神」をほめたたえたいと願う。

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