湖畔で朝食を

426日の説教

牧師 梁 在哲

イザヤ書61章1~3節      ヨハネによる福音書21章1~14節 

復活された主は、約束してくださった通りにガリラヤ湖畔で弟子たちの前にご自身を現わされた(ヨハネ21:1)。ペトロをはじめ、7人の弟子たちが一緒にいた(2節)。そこでいつも先頭に立って彼らを率いていたペトロが「わたしは 漁に行く」と言うと、皆「わたしたちも 一緖に行こう」と言った。何か特別にすることがなかったからである。ところが、皆舟に乗り込み、夜通しで漁をしたが、その夜は、何もとれなかった(3節)。魚一匹もとれなく、漁に完全に失敗した忘れられない夜であった。失敗の道は人間をとるキリストの漁師たちが歩まねばならないものである。しかし、主が共におられる時、その失敗は、回復され、主は取り戻してくださる(ヨハネ15:5)。ところが、朝早く、まだ暗いうちに遠く離れていた見知らぬ人が弟子たちに声をかけられた。「子たちよ、何か食べる物があるか」と 。しかし、彼らはその人が朝食のための魚を買いに来た者だと思い、あっさり「ありません」と答えた(5節)。

すると、主は 「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ」と言われた(6節)。弟子たちは、その人が高い岸の上で群がって来る魚の群れを見つけて自分たちにお知らせしているのだと思い、その人の言われるまま網を降ろした。すると、網を引き上げることができないほど夥しい魚が獲れた。ついに主の愛しておられたヨハネがペトロに、「主だ」と叫んだ途端、ペトロは、裸同然だったので、上着をまとって湖に飛び込んだ(7節)。弟子たちが陸に上がってみると、炭火がおこしてあった。その上に魚がのせてあり、パンもあった(9節)。そして主は 「今とった魚を何匹か持って来なさい」と言われた(10節)。そこでペトロがすぐ船に乗り込んで網を陸に引き上げてみると、153匹もの大きな魚でいっぱいであった(11節)。この出来事に由来して魚は、イエス・キリストのシンボルとなった。「イエス・キリスト、神の子、救い主」の頭文字「イクトウス」は、魚を意味するからである。

復活された主は、夜通しで苦労している弟子たちに変わらない親しいお声で「さあ、来て、朝の食事をしなさい」と言われた(12節)。しかし、彼らはその人が主であることを知りながらも、恐れと不思議な思いに包まれて誰も主に近づいて問いただそうとは、しなかった。そこで主は、近づいて、「パンと魚を取って弟子たちに与えられた」(13節)。今日においても多くの人々は、それぞれの回復と憩いの場所を探し求めている。そこに一時の回復や憩いがあるかも知れないが、失敗や挫折、また困難と苦しみから、人々を取り戻して、回復してくれる場所はない。しかし、復活された主は夜通しで苦労し、空腹の弟子たちを誘われたように私たちをも招いてくださり、取り戻して、回復してくださる。私たちは、御自ら近づいて「さあ、来て、朝の食事をしなさい」と招いてくださる復活された主の声に励まされ、失敗と挫折、またこの未曽有の患難を乗り越えたいと切に願う。

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