主の喜ばしいお告げ

419日の説教

牧師 梁 在哲

出エジプト記15章1~11節      ヨハネによる福音書20章19~31

主イエスは、弟子たちに「父からお許しがなければ誰もご自分のもとに来ることはできない」と言われた(ヨハネ6:65)。弟子たちは、主よりご自身の十字架の死と自分たちの裏切りのことを言われた。彼らにとってそれは、「主の悲しいお告げ」であった。「主の悲しいお告げ」の前に、ある者は、離れ去り、ある者は、主を裏切ろうとして企てて、ある者は、自分の信仰告白をした。しかし、弟子たちは、復活された主を見て、「主の悲しいお告げ」は、「主の喜ばしいお告げ」に変えられた(ヨハネ16:20)。なぜなら、週の初めの日の夕方,ユダヤ人たちを恐れて身を隠していた弟子たちに、復活された主が、現われたからである。主は、ご自分の手とわき腹をお見せになり、「あなたがたに平和があるように。父が私をお遣わしになったように私もあなたがたを遣わす」(20:19~21)と言われたからである。「主の悲しいお告げ」は、平和と派遣の「主の喜ばしいお告げ」に変わった。

ところが、主は弟子たちを手ぶらでお遣わしにならなかった。主は、「彼らに息を吹きかけて言われた。 『聖霊を 受けなさい』」(22節)と。神が「土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れた」(創世記2:7)ように、主は、弟子たちをお遣わしになる前に聖霊を授けられた。なぜなら、聖霊の助けがなければ、遣わされた者として弟子たちは、自分たちに託された使命を果たすことができなくなるからである。そこで主は、弟子たちに委ねられたその使命についてこう言われた。「だれの罪でも、あなたがたが 赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る」(23節)と。カトリック教会では、罪の赦しの権威がペトロに授けられて(マタイ16:19)、彼の後継者として教皇のみにその権限は、授けられている。

しかし、罪の赦しの権威は、ただ神のみにある。そして、御父より世に遣わされた御子に罪の赦しの権威は委ねられ、御父と御子によって送られた聖霊に委ねられている。そして、主の体なる教会に罪の赦しの権威は、委ねられている。聖霊の働きは、いつも私たち人間を通して成し遂げられる。それゆえ、主より遣わされた使徒たちは、聖霊を通して「罪のお赦しの福音」を伝え、聖霊を通してその福音を神の御言葉として受け入れる者は、罪を赦される。私たちは、洗礼によって一回限り罪を赦され、聖餐を通して繰り返して罪の赦しを確かめる。また、主日礼拝ごとに御言葉の解き明かしを通して「罪のお赦しの福音」が宣言され、世に遣わされる。私たちは、「主の喜ばしいお告げ」によって世に遣わされた者として聖霊により頼みつつ、「罪のお赦しの福音」を宣べ伝え続けたいと願う。

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