真理の霊と一緒に証しする者

510日の説教

牧師 梁 在哲

エゼキエル書36章24~28節  ヨハネによる福音書15章18~27節

主イエスは、弟子たちがこの世とどのようなかかわりを持つことになるかについて戒められた。それは愛によって結ばれるかかわりではなく、世から憎まれる苦しみの中で生きることであった。しかし、主は彼らが直面する憎しみの苦難に、先に遭われる(18節)。彼らは、愛において主に従ったように、これからは憎しみの苦難においても主に従うようになる。引き続いて主は、彼らが世に属していない者であり、ご自分より選び出された者であるゆえに、世は彼らを憎むのだと、言われた(19節)。使徒パウロも「世に属している者」は、「キリストの十字架に敵対し、腹を自分の神とし、恥ずべきものを誇りとし、この世のことしか考えていない者だ」と証した(フィリピ3:18~19)。弟子たちは、主によって世から選び出された者であるゆえ、世からよその者と見做され、憎しみの的となる。主に敵対し、迫害する者は、弟子たちを迫害し、主の御言葉を守り、従う者は弟子たちにも従う(20節)。

世は、ご自分を遣わされた御父のことを知らないから、弟子たちは、主の名のゆえに迫害を受けると、主は言われた(21節)。世は、自分たちのみ、神に選ばれて仕える神の民であるとうぬぼれていた。彼らは、主の御言葉に聞く耳を持たず、また誰も行ったことのない主の御業を見ても信じることなく、御子と御父を憎んでいた(22~24節)。ところが、人間の憎しみは、一体どこから来るものだろうか。主はお生まれになった時からヘロデ王に憎まれ、祭司長や律法学者と長老たちからも死に至るまで憎まれた。彼らは、自分たちのみ、神に選ばれて仕える神の民であり、神の御前で正しい者だとうぬぼれた。彼らの憎しみは、そのうぬぼれから来るものであった。一方、今日の人々の憎しみは、極度の不安や危険から自分を守るために過剰に反応するために生じて来るものではないだろうか。彼らは立場の弱い者にその憎しみの矛先を向け、その不安や危うさから逃げようとしている。

ついに主は、理由もなく世から憎まれる弟子たちのためにご自身と御父のもとから遣わされる「真理の霊」が、ご自身について証をすることを確かめられた(25~26節)。なぜなら、聖霊のお働きによって世から憎まれる弟子たちは、助けられ、また頭の髪よりも数多い世の者の偽りの証を打ち破られるからである(詩編69:5)。最後に主は、弟子たちに聖霊と一緒にご自分について証するように求められた(27節)。聖霊の証(使徒5:32)と弟子たちの証は別のものではない。私どもの南房教会の信仰の先人たちの働きと教会の歩みは、いつも共におられる聖霊がお働きになった証に他ならないからである。私たちは「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」と語られる(16:33)「御子のお声」に励まされ、世から憎まれる苦しみに打ち勝つように助けてくださる「真理の霊」と一緒に主を証し、「父なる神の御栄」が現わされるように願う。

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