キリストの勝利

517日の説教

牧師 梁 在哲

出エジプト記33章7~11節    ヨハネによる福音書16章25~33節 

二階の広間で主イエスは、これから新しい関係が生まれる時が来ると弟子たちに言われた。主は父なる神とご自分のもとから聖霊が遣わされ、弟子たちに全く新しい関係を知らせる日が来ると言われた(ヨハネ16:25)。大祭司長でおられる御子のゆえに、わたしたちは、父なる神の御前に近づくことを許され(ヘブライ10:22~23)、「アッバ父よ」と呼び、御子の名によって願うことが許される(ヨハネ16:26)。これこそ、聖霊が来られる時、神とわたしたち人間の間で生まれる新しい関係ではないだろうか。その新しい関係は、弟子たちが主を愛し、主は御父のもとから出て来られた神の御子であることを信じる時(ヨハネ16:27)、生まれるものである(ヨハネ16:30)。しかし、その新しい関係は、主を愛する信仰告白と共に聖霊の導きによらなければならないものである。それゆえ主は、真理の霊、すなわち聖霊が来ると、弟子たちを導き、真理を悟らせ、御父と御子のものを受けて、弟子たちに告げると言われた(ヨハネ16:13~15)。

ところが、弟子たちの信仰告白をお聞きになった主は、彼らが散らされ、ご自分を見捨てても、御父は共におられ、見守ってくださることを言われた(ヨハネ16:32)。御父と御子との関係が断絶されたのは、一回限りの出来事、主が十字架の上で人間の罪を背負われた時のみであった(マタイ27:46)。そして主は、「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」(33節)と言われた。キリスト者の平安は、全く患難のない平安ではなくて、患難の中においてもそれを乗り越えて得られる主にある平安である。苦しみや患難を乗り越え、通り過ぎるように見守ってくださる主にある平安である。宗教家改革者ルターは、「この御言葉は、ローマからエルサレムまでひざまずいて這いあがりしても伝えるに値するものである。」と述べた。苦しみや試練、患難に直面する度にわたしたちはどれほど主にある平安に依り頼っているだろうか。

聖霊が弟子たちに告げる「そのもの」について使徒パウロは、こう証した。「神は御心のままに満ち溢れるものを余すところなく御子のうちに宿らせ、その十字架の血によって平和を打ち立て地にあるものであれ天にあるものであれ万物をただ御子によってご自分と和解させられました」(コロサイ1:19~20)。「そのもの」は、御子の十字架の血によって御父が打ち立てられた平和と和解である。御父は、ご自分に背き、離れていた人間を、御子の十字架の血潮によってご自分と和解させられたからである。御父は、満ち溢れるそのものを御心のままに御子のうちに宿らせ、聖霊はそのものを受け弟子たちに告げる。「そのもの」は、御父と御子から聖霊へ、また聖霊から弟子たちへまるで信仰のリレーにおける(タスキ)のように伝えられて来た。わたしたちも、渡された「そのもの」をいまだに主を知らない人々に伝える信仰のリレーを全うし、「キリストの勝利」にあずからせていただきたいと願う。

前回 目次へ 次回