執り成してくださる聖霊

531日の説教

梁在哲牧師

エゼキエル書37章1~14節    ヨハネによる福音書14章15~27節 

私どものプロテスタント教会は、イエス・キリストを救い主、生ける神の子として信じる信仰告白の上に建てられ、殊に地上の教会は、御父と御子より遣わされた聖霊が弟子たちの上に注がれ、産声を上げるようになった。主は復活された後、また御自ら、十字架の道に進まれる前にも、弟子たちに聖霊を与えると約束してくださった。聖霊の御助けによって弟子たちの心の中に父なる神の愛が注がれ(ローマ5:5)、いつもその愛にとどまることを願われたからである。人間の限られた言葉で神を表すのは、到底できないと思われる。只、祈りの中で全能の父なる神、慈愛の神と、言い表すのが精一杯である。ところが、使徒ヨハネは、あえて「神は愛です」(ヨハネⅠ4:16)と証している。なぜなら、父なる神は、罪と死の奴隷となっていた人間を解き放ってくださるために御子イエスを身代金として支払われたからである。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」からである。

父なる神の愛のゆえに互いに愛し、ご自分の愛の掟を守るように主は、弟子たちに言われた(ヨハネ14:15)。そして主ご自身が弁護者であり、助け主である(ヨハネⅠ2:1)ゆえに、御自ら父なる神に別の弁護者、すなわち聖霊を遣わし、永遠に弟子たちと一緒にいるように願われた(16節)。わたしたちが真理の霊を見ようとも知ろうともしなくて(17節)人を惑わす霊に惑わされないように、今も御子は父なる神の右で(ローマ8:34)、また聖霊は永遠にわたしたちの中で(ローマ8:26~27)執り成しをしてくださる。主の十字架の死のために世は主を見ることができない。しかし、主は弟子たちを孤児にはしておかない。彼らは復活された主に出会い、主のまことの命のゆえに永遠に生きる(18~19節・ガラテヤ2:19~20)。そして、聖霊が来られる、かの日には、弟子たちは主の愛の掟を受け入れ、守り、父と子と聖霊なる三位一体の神のまことの愛にとどまる者となる(20~21節)。

ところが、彼らは聖霊が来られると御父と御子が自分たちを訊ね訪れ、共におられる神の愛に集中せずに、ただ神の力だけに心を奪われていた(22~23節)。そのような彼らに主は、聖霊が、ご自分の教えを思い起こさせると言われた(26節)。それゆえ、わたしたちも「されば聖書は聖霊によりて」と信仰告白を唱える。最後に主は、お別れの挨拶だけではなく、聖霊と共に与えられる平和を約束してくださった。それは、永遠の救いにあずかる平和(ローマ8:1)であり、神に背いて敵対していたわたしたちを御子イエスの十字架の血潮によってご自身と和解させてくださった神の愛から得られる平和である(ローマ5:1、5)。その平和は、世のどのような状況においても奪われないゆえに、主は心を騒がせるな。おびえるなと言われた(27節)。聖霊の御助けによってわたしたちの心に父なる神の愛が注がれ、その愛にとどまり、御子イエス・キリストの平和に満たされるよう切に願う。

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