共におられる真理の霊

67日の説教

梁在哲牧師

イザヤ書40章12~17節     ヨハネによる福音書14章8~17節

主イエスは様々な弟子たちの気性に合わせて彼らの問いに答えられた。トマスに引き続きフィリポが「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます」と言った(8節)。主は、トマスの問いには、真っ直ぐに、またフィリポには、丁寧で論理的に答えられた。昔モーセ(出エジプト33:18)と預言者イザヤ(イザヤ40:5)が神を見ようとしたように、フィリポも神を見ようとした。しかし、主はフィリポに「わたしを見た者は、父を見たのだ」と言われた(9節)。主は彼を責めることなく、むしろ、悲しまれた。善い羊飼いでおられるご自分を羊は知らなかったからである。「わたしを見た者は、父を見たのだ」と言われる主をユダヤ人たちは、神を冒涜する者だと石で打ち殺そうとした。 

ところが、洗礼者ヨハネは、既にこう証した。「いまだかつて、神を見た 者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである」と(ヨハネ1:18)。主は引き続いてフィリポに、なぜわたしを見た者は、既に父を見ていることについて答えられた。「わたしが父の内におり、父がわたしの内におられる」ゆえにわたしの言葉と業こそ、父から受け継がれたからである、と(10~11節)。ここで主は、まもなく御父のもとに行かれるゆえに、二つの約束を弟子たちに与えられた。それは御父に願う弟子たちの祈りは、御子の名を通して叶われ、それを通して御父は、栄光を受けられることである(12~14節)。そして別の弁護者、聖霊を遣わして、永遠に彼らと一緖にいるように御父に願われることであった(16節)。弟子たちは、主の権能を受け、病人を癒し、汚れた霊を追い払うようになった(マルコ6:7)。そして、これから聖霊が来られると彼らは、「もっと大きな業」を行うようになる(12節)。聖霊の御助けによって主の福音は、異邦人に至るまで世に広がり、それこそ、弟子たちが行う「もっと大きな業」となるからである。

父なる神の言葉と業は、御子に受け継がれ、また御父と御子によって聖霊に、そして聖霊によって弟子と使徒たちに、また私たちに受け継がれて来た。最後に主は、これから聖霊を待ち望む弟子たちに愛の掟を守るように求められた(15節)。これから与えられる聖霊によって父なる神の愛が弟子たちの心に注がれるために(ローマ5:5)、彼らは、互いに愛し合うべきだからである。まるでポンプの呼び水によって地下水が湧き出るように、父なる神の愛も、互いに愛し合うことによって彼らの心の中に満ち溢れ、注がれるからである。父なる神は、わたしたちにご自分の霊を分け与えてくださり、わたしたちと共におられ(ヨハネⅠ 4:13)、御子なる神は、世の終りまでわたしたちと共におられ(マタイ28:20)、聖霊なる神は、永遠にわたしたちと一緒におられる(16節)。わたしたちは、いつも共におられる三位一体の神をほめたたえつつ、主のもっと大きな業を全うできるように切に願う。

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