限りなく与えられた聖霊

6月21日の説教

梁在哲牧師

ハバクク書2章1~4節     ヨハネによる福音書3章22~36節 

洗礼者ヨハネは神がお許しにならない限り、人間は何も出来ないことを良く知っていた。それゆえ彼は、主の前に遣わされた者として神のご計画の中で自分の位置を良くわきまえ(28節・30節)、毅然として自分の使命を忠実に果たした。ヨハネは、首をはねられて殉教し、主は十字架で亡くなられた。しかし、ヨハネも主イエスも地上においてその使命を忠実に全うされた。私どもの南房教会は、今年度の教会標語として「善い管理者として互いに仕える教会」と掲げている。神より与えられた一度だけの2020年度に私たちは自分の位置をしっかりとわきまえた上で地上の務めに忠実に臨み、主から 「忠実な良い僕だ。よくやった」と褒められたい。

モーセが花婿の介添え人としてイスラエルの民を神のもとに導き出したように洗礼者ヨハネは、花婿として来られる主の道を真っ直ぐに備える花婿の介添え人として主の栄の前に妬みではなく、むしろ喜びで満たされると証した(29~30節)。彼の喜びは、母親の胎内の中にいた時、既に始まっていた聖なる喜びであった(ルカ1:43~44)。そして、彼は、ナザレのイエスこそ、神から遣わされ、聖霊を限りなく与えられた神の子でおられ、御父の言葉を話されると証した(34節)。なぜなら、彼が主に洗礼を授けた時、聖霊が鳩のように天から降って主の上にとどまるのを見たからである(ヨハネ1:32~34)。預言者イザヤも、御子は、御父より限りなく聖霊を与えられ、いつも聖霊に満たされると預言した(イザヤ11:1~3)。

最後に洗礼者ヨハネは、神の子を信じる者は、永遠の命を得ていると証した(35節)。人は御子を信じる信仰によってのみ救われ、生きると述べた宗教改革者ルターの「信仰義認」は、使徒パウロ(ローマ1:17)、洗礼者ヨハネ(35節)、そして預言者ハバククまでさかのぼる(ハバクク2:4)。しかし、御子に従わない者は、神の 怒りがその上にとどまり、それは、新たなものではなく、アダムの罪のゆえに人間に置かれていた本来のお怒りである。洗礼者ヨハネは、自分の立場をわきまえ、へりくだり(ヨハネ1:27)、聖なる喜びをもってナザレのイエスこそ、神の子であり、御子を信じる信仰によって永遠の命を得ると証した。私たちは、神のご計画の中に与えられているそれぞれの立場をわきまえ、へりくだり、主にある喜びをもって主の十字架とご復活を証し続けたいと切に願う。

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