霊と真理をもって礼拝する時

6月28日の説教

梁在哲牧師

ミカ書4章1~7節     ヨハネによる福音書4章5~26節 

ニコデモとサマリアの女は、二人とも人の目を避け、ニコデモは夜にイエスを訪ね、サマリアの女は、真昼に、水くみの際、井戸でイエスに出会った。ナザレのイエスが、ヨハネよりも多くの弟子をつくり、洗礼を授けておられることが、ファリサイ派の人々の耳に入り、彼らは妬みや敵意を抱くようになった。その時、主は彼らとの衝突を避けてユダヤを去り、再びガリラヤの方へ行かれた。ところがユダヤとガリラヤの間にあるサマリアという所を通らねばならなかった。正午ごろ、イエスは旅に疲れて、そのまま井のそばに座っておられ、ちょうど水をくみに来たサマリアの女に「水を飮ませてください」と言われた(6~7節)。ところが、彼女は、自分に水を飲ませてくれと、お声をかけているそのユダヤ人の男を不思議に思っていた(9節)。そこで、主は彼女に神の賜物として生きた水、すなわち聖霊を与えると言われた(10節)。

それゆえ、彼女は、この不思議な旅人に尊敬の思いを抱き、主よ、と呼んだ。しかし、彼女はまだこの方がどなたであるかを知らないまま、自分たちの祖先ヤコブと比べていた(11~12節)。しかし、主は、その井戸の水を飲む者は、また渇くが、ご自分が与える生ける水は、信じる者の中から湧き出て、永遠の命に導かれると言われた(13~14節)。後に主は、仮庵祭の終りの日に同じことを大声で言われた(ヨハネ7:37~39)。それゆえ、最初は、主が彼女に水を求めていたが、今度は彼女が主に求めている(15節)。ところが、彼女は、主から突然、自分の夫の話を聞かれて、意表を突かれ、心を揺さぶられた(16~18節)。ついに、彼女は、主を預言者として見受け、自然に礼拝への問いが出て来た(19~20節)。彼女の問いに、主は、空間と時間を超えられる神(列王記上8:27)に、まことの礼拝をする時が来ると、語られた(21節)。そして、今がその時であり、神は「霊と真理をもってまことの礼拝」をする者を求めておられると言われた(23~24節)。

霊をもって神を礼拝する時、聖霊に満たされて、神が示された正しい道を歩むことが許される(ミカ4:2)。神は、福音を通してご自身とわたしたちとの間に正しい関係をもたらす道を示され、信仰によってのみ、わたしたちにその道は、許される(ローマ1:17)。そして、真理をもって神を礼拝する時、道であり、真理であり、命でおられる御子イエスとの交わりを許される。その時、差別や偏見を持たずに自分の本来の姿で礼拝を捧げることが出来るのではないだろうか。サマリアの女は、イエスとの会話を通して、最初は不思議に思い、次は主よ、また預言者だと言い、ついにメシアだと気づくようになった(25節)。洗礼者ヨハネは、自分はメシアではないと宣言し、主は御自らキリストであると明確に宣言された(26節)。わたしたちは、聖霊に満たされ、御子イエスとの交わりにあずかり、父なる三位一体の神にまことの礼拝をささげ続けたいと願う。

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