労苦の実りにあずかる者

7月5日の説教

梁在哲牧師

ヨナ書4章1~11節     ヨハネによる福音書4章27~42節 

救い主に出会ったサマリアの女の喜びは、自分の恥ずかしい過去を告白するほどの勇気をもたらした。アンデレとフィリポがそうであったように女も自分が聞き、見たことを証した(ヨハネ1:40~46)。ちょうど真昼時、三々五々、世間話など雑談を交わしていた町の人々は、女の話を聞いて皆、町を出てイエスのもとへやって来た(30節)。その間に弟子たちがイエスに食事を勧めると、主は、彼らが知らない食べ物があると言われた(31~32節)。それは、ご自分をお遣わしになった御父の御心を行い、その業を成し遂げることである(34節)。サマリアの女を救い、その業を成し遂げることこそ、御心であり、主ご自身の糧である。主は御心に従ってサマリアの女の救いに没頭され、食事をすることさえ忘れておられた。

 ここで主は、人々を救うために一刻も早く働かねばならないと言われた。主はその青い麦畑の中、白い衣の町の人々が、自分のもとへ駆けつけて来るのをご覧になり、弟子たちは、青い麦畑を見ていた。それゆえ、主は「目を上げて畑を見るがよい。色づいて刈り入れを待っている」と言われた(35節)。主は福音の種を撒かれ、弟子たちは刈り入れる。刈り入れる者の報酬は、救われる者を集め、共に喜ぶことである(36節)。しかし、刈り入れる者は、自分では労苦せず、他の人々が 労苦した実りにあずかり、そのために、主は彼らをお遣わしになった(38節)。ニネべの悔い改めのために遣わされたヨナも、神から「お前は、自分で労することも、育てることもなく」(ヨナ4:10)と言われた。福音伝道は、長い年月を通して信仰の先人たちが整え、築き上げた礎の上に成し遂げられる。それゆえ、わたしたちは、その労苦の実りを収める時こそ、へりくだり、全てのことを神に栄光を帰すべきではないだろうか。

サマリア人たちは、ユダヤ人とギリシア人が求めるようなしるしや知恵ではなく、自分たちのところにとどまるように頼んだ(40節)。ヨハネとアンデレも主のもとに泊り、また徴税人ザアカイも主から「今日は是非あなたの家に泊まりたい」(ルカ19:5)と言われ、信じるようになった。女の証は、町の人々を主のもとへ導き、更に多くの人々が自ら主を見て、御言葉を聞き、信じるようになった(41~42節)。種を撒かれ、また刈り入れられる主は、一人の女を通して福音の種を撒かれ、多くの人々を刈り入れられた。その意味においてわたしたちは、種を撒く者ではないし、収穫者でもない。既に主が福音の種を撒かれ、苗代で育てられた苗を、わたしたちは田植えする者で、「収穫の主」に働き手を送ってくださるように願い(ルカ10:2)、刈り入れる者に過ぎないからである。わたしたちは、自分の信仰の歩みにおいて行われた「種まきと刈り入れ」を顧みつつ、信仰の先人たちの「労苦の実にあずかる者」として主が再び来られる時、福音の種を撒かれる収穫の主の喜びに共にあずかりたいと切に願う。

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