キリストを迎え入れる者

7月26日の説教

梁在哲牧師

 

イザヤ書43章1~13節       ヨハネによる福音書6章16~21節 

「五つのパンと二匹の魚」の奇蹟のしるしを目の当たりした群衆は、皆興奮状態となっていた。彼らは、このナザレのイエスこそ、自分たちをローマ帝国の束縛から解放してくださるメシアだと思い、イエスを王様にして連れて行こうとした。それに気づかれたイエスは、いつもの通りお一人で祈られるために山のほうに退かれた。弟子たちは、イエスに言われた通り、「夕方になったので、湖畔へ下りて行った」(16節)。そこで彼らは、しばらくイエスが来られるのを待っていた。ところが、既に暗くなっていたが、イエスはまだ来ておられなかった。彼らは船に乗り、カファルナウムに行こうとした(17節)。その瞬間、突然風が強くなり、湖は、荒れ始めた(18節)。日が暮れて風も強くなり、荒れた湖は漁師だった弟子たちには、慣れていることにもかかわらず、主が共におられない状況の中で、やはり心細くなったに違いない。

 誰でも向うの岸辺に向かって漕いで行こうとする人生の湖のほとりで、誰でも日暮れて暗くなり、そばに頼るべき人がいなければ、風さえも自身の味方でなく、意地の悪い存在となるのではなかろうか。しかし、心細いまま、さびしい思いをしながらも、弟子たちは、何となく向うの岸辺に向かって漕ぎ出した。すると、湖のちょうど真ん中の所で「彼らはイエスが湖の上を歩いて舟に近づいて来られるのを見て恐れた」(19節)。心細くなったまま、小舟を浮かしてやっとそこまで漕いで来たのに益々激しくなった暴風の中で彼らは立往生し、途方に暮れていた。ところが、その時、彼らが目にしたのは、激しい暴風の湖の上を歩いて舟に近づいて来られるイエスの姿であった。湖の上を歩かれるイエスの姿にわたしたちは、目を奪われ勝ちになる。しかし、もっと大事なことは、大水の上におられて(詩編29:3)、海の高波を踏み砕かれる(ヨブ9:8)、主が小舟の弟子たちに近づいて来られた驚くべき事実ではないだろうか。主は、不安と恐ろしさの余り、おののいている弟子たちに近づいて来られて「わたしだ。恐れることはない」と言われた(20節)。それは単なる「俺だ」という意味ではなく、ホレブ山で神がモーセに「私はあると言う者だ」と言われたお言葉である(出エジプト3:11-14)。

使徒パウロも、主が先に自分に近づいて来られて、そして異邦人にも近づいて来られた御恵みによって、わたしたちも皆、神の御前に大胆に近づくことが許されるその感激をこう証した。「私たちは主キリストに結ばれており、キリストに対する信仰により確信を持って大胆に神に近づくことが出来ます」と(エフェソ3:12)。わたしたちが先に神に近づいた訳ではなく、むしろ不安と恐ろしさのゆえにおののいている臆病の弟子たちに、そして罪深くて何の功もないわたしたちに、主は先に近づいて来られた。それゆえ弟子たちも、またわたしたちも、恐れることなく主に近づくことが許されて、それぞれの自分の小舟に主を迎え入れることが出来るのではないだろうか(21節)。わたしたちの人生の湖の荒波や嵐の中で、先にわたしたちに近づいて来られ、「私だ。恐れることはない」と、言われる主のお声に勇気づけられ、主を迎え入れ、全てのことを委ねつつ、目指すべき向うの岸辺に主と共に辿り着きたいと願う。

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