永遠の命に至るパン

8月2日の説教

梁在哲牧師

 

列王記上17章8~16節       ヨハネによる福音書6章22~27節 

五つのパンと二匹の魚の奇跡のしるしのその翌日、湖の向こう岸に残っていた群衆は、皆、熱狂的になり、イエスを王様に祭り上げるために捜し続けていた(22節)。ところが、群衆はイエスも弟子たちもそこにいないと知ると、自分たちも、ティベリアスから来た群れの小舟に乗り、イエスを捜し求めてカファルナウムに来た(23~24節)。彼らは、湖の向こう岸でイエスを見つけると、自分たちの熱意を誇って見せるため、また昨夜の激しい暴風の中、どうやってここに来たのか、不思議に思いつつ、「ラビ、いつ、ここにおいでになったのですか」と言った(25節)。

そこでイエスは、奇跡のしるしの真意を知らずに、肉のパンで満腹し、熱狂的になっていた群衆を戒められた(26節)。群衆は押し寄せ、主の証は始まり、その証が終わると彼らは引き潮のようにその場から去って行く。主の証の始まりは、わたしは、いつまでもなくならないで、「永遠の命に至る食べ物」であることであった。それこそ、父なる神より授けられた御子のみ力によって与えられる「永遠の命に至る食べ物」である(27節)。奇跡のしるしの真意を悟り、信じる者は、「永遠の糧」を得られる。そうではない者は朽ちる食べ物しか得られない。奇跡のしるしは朽ちる食べ物ではなく、永遠の命に至る食べ物を与えるためのものである。

イエスはサマリアの女に、わたしは、決して渇かない「永遠の命に至る水」だと言われ(ヨハネ4:13~14)、カファルナウムで群衆にも「永遠の命に至る食べも物」であると言われた。主は、群衆の切実な願いを御父より授けられたみ力によって満たしてくださった。そのため彼らはイエスを王様に祭り上げようとした。毎日のように人々に食べ物を与える奇跡のしるし、それ以上の素晴らしい社会保障があるだろうか。しかし主はそのようなことを願われた訳ではない。後に群衆は、主が自分たちの願い通りにならないことに気づき、イエスを十字架に付けよと叫んだ。

わたしたちに求められるのは、「罪に仕える奴隷となって死に至るか、神に従順に仕える奴隷となって義なる永遠の命に至るか、どちらかなのである」(ローマ6:16)。しかし、主を信じる信仰によってのみ、わたしたちは御前に近づくことを許され、それぞれの小舟に主を迎え入れ、「永遠の命」を得られる。永遠の命は、罪の奴隷となっていたわたしたちに支払われる死の報酬ではなく、御子を身代金として支払われ、罪と死の力の奴隷から解放してくださった父なる神の恵みの贈り物である(ローマ6:23)。それは自分の働きやお金によって得られるものではなく、ただ神の恵みの贈り物である。誰も誇ることはできない(エフェソ2:8~9)ゆえに、わたしたちはただ、神の恵みに喜びの讃美と祈りをもって感謝の礼拝を捧げ続けたいと切に願う。

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