キリストの時

8月23日の説教

梁在哲牧師

 

ヨブ記28章12~28節     ヨハネによる福音書7章40~52節

宗教指導者たちの強引なやり方に従い、下役たちはイエスを捕まえようとした。しかし、イエスが十字架で亡くなられる「イエスの時」は、まだ来ていなかったから(ヨハネ7:30)、手をかける者はいなかった(44節)。すると、ファリサイ派の人々は、イエスを捕まえて連れて来るどころか、むしろ尊敬するような報告をした下役に激しく怒り(47節)、ついに、その憤りは、民のほうに向けられ、呪いに変わった(49節)。ところが、彼らの中の一人で、以前イエスを訪ねたことのあるニコデモの思わぬ反論に、宗教指導者たちは驚きを隠せなかった(50~51節)。律法によれば、先ず訴えられた者の陳述を聞き、その行為を審査する前には、罪に定めることは出来ない(申命記1:16~17)ことを指摘したからである。そこでファリサイ派の人々はニコデモの正しい指摘に反省するどころか、開き直り攻撃をした(52節)。

しかし、彼らの矛盾と律法違反を正しく指摘したニコデモは、イエスについて証しなかった。ニコデモも、アリマタヤ出身のヨセフも、「キリストの時」を知らなかったからである。古代ギリシア人たちは、過去、現在、未来といった時の流れと特別な出来事をもって時が満ちる瞬間を見分けていたが、それらは、永遠とは無関係なものであった。しかし、聖書は、神の永遠が人間の時間の中へ突入して来るという仕方で時が満ちると伝えている。「時が満ちると、神はその御子をお遣わしになり」(ガラテヤ4:4)、御子は、「時は満ち、神の国は近づいた」と宣べ伝え(マルコ1:15)、「定められた時にご自分を全ての人の贖いとして献げられ」(テモテⅠ2:6)、「こうして、時が満ちるに及んで救いの業が完成され、あらゆるものが頭であるキリストのもとに一つにまとめられる」時を伝えている(エフェソ1:10)。

神学者カール・バルトも「初めから終わりに至るまでの時間の広がり全体は、丁度子どもが母の腕に抱かれているように永遠の中にある」と述べた。天地万物と共に時間をも創造されたゆえに、神の永遠は、その時間に先立ち、時間に同伴し、時間を成就するからである。そして、時を満たしてくださる主が再び来られる時を待ち望むこと無しには、わたしたちの時間は、無方向であり、無意味である。それは、大海原で揺れ動く小舟のような、また真っ暗闇の宇宙空間で時間の流れを感じられないようなものである。それゆえ、「初めであり、終りである」(イザヤ44:6)永遠なる神だけが、時の中で死に行くわたしたちに御子イエス・キリストを通して永遠の命を授けられる。こうしてわたしたちは、主が再び来られ、あらゆるものがキリストのもとに一つにまとめられる「キリストの時」を待ち望みたいと願う。

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