主にあるまことの自由

8月30日の説教

梁在哲牧師

 

出エジプト記34章4~9節     ヨハネによる福音書8章3~11節

エデンの園で蛇が神の命令に機会を得、エバを欺いたように宗教指導者たちも蛇のように掟をもってイエスと群衆を欺こうとしていた。使徒パウロも律法を守れば救われると高ぶり、結局、罪は律法を利用し、自分を欺き、殺してしまったと証した(ローマ7:11)。しかし、福音は人を打ち殺すためではなく、人を愛し、皆救われるために用いられるものである。打ち殺すべきものは、わたしたちの生まれつきの罪の本性ではないだろうか。宗教指導者たちがしつこく問い続けるので、イエスは「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」と言われた(ヨハネ8:7)。彼らに良心の呵責を感じさせたイエスの権威は、荒れた湖と突風さえ、お叱りになり、すっかり凪になるものであった(マタイ8:26)。その場の騒ぎは静まり、彼らが立ち去るまでイエスは、「身をかがめて地面に書き続けられた」(8節)。

ついに思慮深い年長者からその場を去り、一人また一人と、順番に若者たちもその場から立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女が残った(9節)。罪を定めるためではなく、救われるため世に来られたイエスは、「婦人よ、わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない」と言われた(11節)。御父より裁きの権能を授けられた御子の前に罪を訴える者も、定める者もいなくなった(ヨハネ5:27)。「罪を犯してはならない」箇所は、英語聖書では「Leave your life of sin」 と訳され、「あなたの罪ある人生から離れなさい」とイエスは願われた。社会的距離が叫ばれる時勢でそれは、霊的距離、「Holy₋Spiritual Distance」ではないだろうか。罪を憎まれる父なる神は、わたしたちが償うべきものを御子の十字架の死を通して払われるほど、罪人を愛してくださった。それゆえ御子は、誰の罪をもお赦しになられる。しかし、罪人が赦されるためには、先ず、自分の罪を告白し、悔い改め、罪ある人生から離れ、心持が変わらねばならない。

主は、人間の弱さのゆえにただ、わたしたちが罪ある人生から離れるように願っておられる。使徒パウロは、そのような惨めな人間の弱さを嘆いた(ローマ7:24)。聖書は、エデンの園で失われた人間の自由を取り戻す道を一貫して示してくれる。父なる神は、抑圧される者は、皆奴隷と見なされ、奴隷の状態を終息させることを願われ、ついに御子を通して罪の奴隷となっていたわたしたちを解放される機会を許された(ローマ8:1~2)。聖霊お働きによってのみ、わたしたちは、罪ある人生から離れ、罪を赦され、「主にあるまことの自由」を得られる((コリントⅡ3:17)。復活された主は、罪を赦す権威を弟子たちに授けられ(マタイ18:18)、教会は、主日礼拝において御言葉の解き明かしを通して罪の赦しを宣言し続ける。今日も罪を赦していただき、世に遣わされる者として聖霊の御助けによってまだ主イエスを知らない人々が罪を告白し、悔い改め、罪ある人生から離れ、「主にあるまことの自由」を得られるように切に願う。

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