イエスは世の光

9月6日の説教

梁在哲牧師

 

出エジプト記13章17~22節   ヨハネによる福音書8章12~20節

仮庵祭の期間中、イスラエルの民は、神が荒れ野で彷徨う自分たちを火の柱で導いてくださった出来事(出エジプト13:21)を覚え、神殿の「婦人の庭」で大きなたいまつを灯し続けた。イエスは、その光が神殿だけではなく、エルサレムの町中を照らしているのをご覧になり、神殿の宝物殿の近くで「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を步かず、命の光を持つ」と証した(ヨハネ8:12)。その光は、罪のために暗闇に包まれている人間を照らす、命の光である(ヨハネ1:4)。それゆえイエスは、ご自分のことを命につながるパン、まことの葡萄の木、生きた水、世の光であると言われた。それで、ファリサイ派の人々は、モーセの律法に沿ってイエスの証は、真実ではないと言い張った(13節)。しかし、イエスは世に来られる前から父なる神と共におられ、死なれた後、永遠なる御父の栄光に帰られることをファリサイ派の人々に証した(14節)。そしてイエスは、いつも御父と一緒にいるゆえ、ご自分の判断は、そのまま御父の判断となり、救うために世に来られたゆえに裁かないと言われた(15~16節)。

イエスはまた、二人の証言は真実であると、律法で定められているゆえに、ご自分と御父の証言は、なおさらのことで、真実であると言われた(17~18節)。しかし、彼らは、依然として自分の空間の中から神を探し、肉の人間の基準にとどまっていた(19節)。御子を通らなければ、御父を知らない(ヨハネ14:6)、聖霊を通らなければ、御子を知ることはできない(14:26)、三位一体の神の秘められた奥義は、信じる者にのみ啓示されるからである。婦人の庭は、神殿の中で最も賑やかな場所であり、そこにはラッパ模様の宝物殿が13箇所設置され、七つは神殿税金のため、六つは献金のためのものであった(マルコ12:41)。イエスは、公然と敵の前でお話をされたが、「神の定められた時」が来る前には、誰もイエスを捕えなかった(20節)。

天地創造の第一の日に神は、「光あれ」と言われ、混沌たる地から闇は去り、秩序が生まれた。ついに父なる神は、罪と死の力のゆえに暗闇に包まれている人間を照らし、ユダヤ人だけではなく、全ての人を救われる「世の光」として御子を遣わされた。それゆえ、御子に結ばれ、従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ、「光の子と呼ばれることを許される」(エフェソ5:8)。そして「世の光」である主は、わたしたちをも「世の光」(マタイ5:14)としてご自分の光を明るみであまねく宣べ伝えるように命じられた(マタイ10:27)。ところが、使徒パウロは、主が再び来られる時を待ち望む者に、「光の天使を装う暗闇の力に注意せねばならない」と戒めた(コリントⅡ11:14)。そして主が再び来られ、隠れているすべてを現わされるまで(コリントⅠ4:5)、「キリストの光の武具を身に着けて善い戦いを続けるように」勧めた(ローマ13:12)。わたしたちは、主が再び来られ、「闇の中に隠されている秘密を明るみに出し、人の心の企てを明らかにされる時」を待ち望みつつ、キリストの光の武具を着、善い戦いを続けたいと願う。

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