主の言葉にとどまる者

9月13日の説教

梁在哲牧師

創世記21章1~10節     ヨハネによる福音書8章31~38節

イエスは、神殿の婦人の庭で、「ご自分の言葉にとどまり、受け入れる者は、皆弟子となり、真理を知ることができ、その真理は人を自由にする」と言い続けられた(31~32節)。すると、それを聞いていたユダヤ人たちは、「自分たちはアブラハムの子孫で、今まで誰かの奴隷になったことはない」と反論した(33節)。彼らは、アブラハムを通して神の祝福を受け継いでいる選ばれた民としての誇りを持って生きていたからである。しかし、ユダヤ人たちは、出エジプト以来、バビロン、アッシリア、ペルシャ、今はローマ帝国に支配されているにもかかわらず、自分たちはアブラハムの子孫だから永遠の天の国は、保証されていると信じ込んでいたからである。そこでイエスは、「神の御前で罪を犯した者は、誰でも罪と死の力の奴隷となり」(34節)、エジプトの女奴隷ハガルとその息子イシュマエルが荒れ野に追い出されたように(創世記21:10)、奴隷はいつまでも主人の家にいる訳にはいかないと言われた(35節)。

それゆえ、ユダヤ人も罪の奴隷である限り、永遠の天の国に、入ることも、神の祝福を受け継ぐこともできないのである。そしてイエスは、ご自分のみ、人間を罪と死の力の鎖から自由にする力と権威を持っておられることを言われた(36節)。自分のことだけを量る利己心、逆らう反抗心、全部自分の物にしたがる貪る心のような罪のとりこになっている私たちを主のみ解き放ってくださる。その時は、主が十字架を背負い、高くあげられるキリストの時である。それゆえ、イエスは、「あなたがたは、私の言葉にとどまりなさい」と言われた。主の言葉を心に刻み、生きる時、わたしたちは、主の言葉にとどまり、真理を見ることが許され、罪と死の力の鎖から解き放たれ、主の弟子として生きることを許されるからである。引き続きイエスは、ご自分を殺そうと企んでいたユダヤ人たちは、真の霊的なアブラハムの子孫ではないと明らかにした(37節)。

イエスは、彼らの本心を鋭く指摘し、ご自分は、世の光として来られたゆえに、「私は父のもとで見たことを話している」が、彼らは、暗闇の中でささやく自分たちの父、すなわちサタンの子だから見ることはできないと言われた。それゆえ、イエスは、「ところが、あなたたちは父から聞いたことを行なっている」と言われた(38節)。主イエスを信じる者は、主の言葉にとどまり、それを心に刻み、生きるゆえに、罪と死の力の鎖から解き放たれる。「主の言葉にとどまる者」は、血筋と肉のつながりを超え、「神の御心を行う神の家族」である。主イエスは、御言葉にとどまり、「神の御心を行う人こそ、ご自分の兄弟、姉妹、また母なのだ」(マルコ3:35)と言われ、今も、十字架とご復活の出来事を通して血筋と肉のつながりを超え、「神の家族」として、わたしたち一人一人を招いてくださるからである。わたしたちは、主の言葉にとどまり、主に招かれた神の家族として主の弟子の道を全うする者となりたいと願う。

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