呼び集められた者

9月20日の説教

梁在哲牧師

 

エレミヤ書50章4~7節     ヨハネによる福音書10章1~6節

イエスは、生まれつき目の見えない男を癒された後、ファリサイ派の人々にその出来事に因んで、羊飼いと羊のたとえ話しを語られた。羊飼いと羊の群れにとって羊の囲いの門は、まさに命にかかわる大事な出入り口である。それゆえ、イエスは、門を通らないでほかの所から入ろうとする者は、悪いことを企み、危害を加える泥棒や強盗のような者であり、「門から入る者」のみ、善い羊飼いであると言われた(ヨハネ10:1~2)。羊は聖書の中で頻繁に用いられ、涙の預言者エレミヤも、長い間ユダヤ人たちを捕虜にしていたバビロンの滅亡と、迷わせる羊飼いによってさまよう羊のようなイスラエルの姿を預言した(エレミヤ50:4~7)。羊は敵から自分を守ることのできない非常に臆病な動物である。その反面、飼い主の声を聞き分ける鋭い感覚の持ち主でもある。それゆえ、イエスは「門番は羊飼いには門を開き、羊はその声を聞き分ける。羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。自分の羊を全て連れ出すと、先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、ついて行く」と言われた(3~4節)。

羊飼いが1匹1匹の名を呼んで連れ出すように、善い羊飼いである主は、わたしたちの名を呼んでくださる。しかし、わたしたちは、誰かに強いられ、熱心な硏究や勉によるものではなく、聖霊の御導きによってのみ主のお声を聞くことが許される。まさに、自分の飼い主の声だけは、聞き分ける羊のように、わたしたちも、主のお声を聖霊の御助けを通して聞き分けることを許される。「呼んで連れ出す」という言葉は、ギリシア語では「エクレシア」、すなわち「呼び集められた群れ」の意味を持ち、後に「教会」の意味となった。それゆえ、わたしどもの敎会は、善い羊飼いが1匹1匹の名を呼んで連れ出すように、一人一人の名を呼んでくださる主のお声を聞き、それぞれの囲いから連れ出される者ではないだろうか。その羊の囲いの中には、救い主を待ち望み、主のお声を聞き分け、その名を呼んで連れ出してくださる主について行く者もあった。しかし、使徒パウロは、皆がそういう者ということにはならないと証した(ローマ9:6~7)。

世の人々は、尋常ではないものに畏れ敬い、手を合わせ拝み、ご利益と慰めを、また心の安らぎを求めている。しかし、わたしたちは、それぞれの「羊の囲い」から主より自分の名を呼ばれ、連れ出された者である。これこそ、聖霊の御助けを通してなされる主の御業ではないだろうか。最後にイエスは、目が見えるようになった男が会堂から追い出された出来事(ヨハネ9:34)に因んでたとえられた。実は、会堂から追い出されたその男は、フアリサイ派の人にはついて行かず、逃げ去ったからである(5節)。ところが、彼らは、そのたとえが何のことか分からなかった(6節)。こうして、見えない者は、目が見えるようになり、「主よ、信じます」(9:38)と告白し、見える者は、見えないようになる。今も世の人々は、主のお声を聞こうともせず、自分の囲いに閉じこもっている。わたしたちは、それぞれの「羊の囲い」から主の呼び声に連れ出され、「呼び集められた者」として、今も自分の囲いに閉じこもっている人々に、その名を呼んでくださる主イエス・キリストの御業に仕えてゆく者でありたいと願う。

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