取り囲まれた主

9月27日の説教

梁在哲牧師

 

歴代誌下7章11~16節     ヨハネによる福音書10章22~30節

ユダヤ人たちの間に、混乱が生じ(ヨハネ10:19~21)、しばらくの間、イエスを攻撃することができなかった。イエスは、仮庵祭の2ケ月後の冬、神殿奉献記念祭が行われるエルサレム神殿の境内のソロモンの回廊を步いておられた(22~23節)。ところが、ユダヤ人たちは、イエスが神殿を訪れているのを見て、いきなりイエスを取り囲んで責め立てた(24節)。彼らが一気に問題を解決しようとする熱心さは、信じるためではなく、何か口実を見つけるためのものであった。しかし、イエスは、「わたしは御父と共に働いている」(ヨハネ5:17)、また、「わたしは天から降って来た」と言われ(6:38)、「わたしが御父の名によって行われる業こそ、メシアの業である」と証しされた(25節)。そしてイエスは、「彼らはわたしの羊ではないゆえに、わたしの声を聞き分けず、従わない」ことを言われた(26~27節)。

ユダヤ人たちは、不信仰のゆえにイエスに従わなかった。イエスにより目が開かれた男は、会堂から追い出された。彼はユダヤ人たちについて行かず、逃げ去り(10:5)、「主よ、信じます」と告白した(9:38)。引き続きイエスは、「わたしを信じる者は、永遠の命を与えられ、滅びず、誰にも奪われない」と言われた。なぜなら、全てのものより偉大な御父より与えられたゆえに、誰も彼らを父の御手から奪うことはできないからである。そして、御父と御子の手から奪う者はいないゆえに、御父と御子は一つであると言われた(28~30節)。それゆえ、パウロは、「誰も御子によって示された父なる神の愛からわたしたちを引き離すことはできない」と証した(ローマ8:39)。カルヴァンもその箇所を、「救いの安全性」の根拠となると述べた。それは、まさに人間の力や知恵によるものではなく、主のみ力こそ、救いの安全を成し遂げられ、如何なる誘惑や苦難に出遭っても、わたしたちに恐れはない根拠となる。ペトロは、ただ、わたしたちがやるべきことは、「身を慎んで目を覚ましている」ことであると戒めた(ペトロⅠ5:8)。

ユダヤ人たちは、神を冒瀆したと訴え、イエスを殺そうとした。イエスがどのように証しされても、彼らは、信じるどころか、いきなりイエスを取り囲み、責めるだけの群れであった。ヨシュアと兵士たちの信仰による取り囲みによってエリコ城壁は、崩れ落ちた。(ヘブライ11:30)。また、小アジアのリストラで、ユダヤ人たちに石を投げつけられ、倒れていたパウロを起した弟子たちの取り囲みは、主にある愛によるものであった(使徒14:20)。しかし、ユダヤ人たちの取り囲みは、殺意と敵対心と高ぶりに満ちているものであった。イエスは、地上において迫害と死の十字架に取り囲まれ、今も世の人々の無関心と無知に取り囲まれておられる。しかし、主が、「勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」と言われるゆえに、わたしたちもそのお声に勇気づけられ、励まされる。今まで経験したことのない自然災害や未曽有の疫病、また様々な苦難に取り囲まれている今、わたしたちは、既に世に勝っておられる主のお声に励まされ、世の旅路を雄々しく歩み続けたいと願う。

前回 目次へ 次回