人間をとる漁師たち

1月17日の説教

梁在哲牧師

 

エゼキエル書2章1節~3章4節 マタイによる福音書4章18~25節

イエスは、ガリラヤ湖のほとりを步いておられた時、シモンとアンデレが、湖で網を打っているのをご覧になり、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう 」と言われた(18~19節)。イエスのガリラヤ伝道は、立派な会堂や組織より弟子たちをお選びになることから始まり、選ばれた弟子たちも、ガリラヤのありのままの、素朴な漁師であった。主のお呼び声は、漁師にとって分かりやすく、しかも不思議な権威と力に満ちていた。それゆえ、彼らは、直ちに父親を残し、網や舟を捨ててイエスに従った(20~22節)。その後イエスは、ガリラヤ中を回って諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、また民衆のありとあらゆる病気や患いをいやされた(23節)。イエスのガリラヤ伝道は、後の宣教師たちに受け継がれ、彼らは福音と共に教育と医療宣教に力を注いだ。イエスの名は広まり、人々はあらゆる病人を連れて来て癒され、異邦人の町からも群衆は来て主に従った(24~25節)。

ペトロとアンデレ、ヤコブとヨハネ兄弟は、仕事の真っ最中に主に召され、平凡な漁師から他に先んじてイエスに従う人間となった。だからと言って彼らが直ちに完璧な人間となった訳ではない。後に主より新しくケファ(岩)と名付けられたシモンは、岩どころか、むしろ衝動的な性格の持ち主であった。しかし、彼はペトロ(盤石)になりつつ、主に従った。わたしたちも、主に召された時、何を求められていたか、分からない。しかし確かなことは、ご自分を三度にわたって拒み、罵った失敗だらけのペトロのような者を主は受け入れ、お赦しになった事実である。主に従う者に相応しくなく、失敗だらけのわたしたちを主は「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と受け入れてくださる。わたしたちは、主のお声に励まされつつ、漁師が船の中に魚をとり集めるように悩み、苦しんでいる周りの人々を主イエスのみもとに連れて来る者であり続けたいと願う。

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