新しい生きた道

3月28日の説教

梁在哲牧師

 

ゼカリヤ書9章9~104節     マタイによる福音書27章45~56節

イエスが十字架に付けられた後、全地は急に暗くなった(マタイ27:45)。その暗さは、人間の罪と死を代わりに背負われた御子イエスの苦しみを表わすものであった。御子イエスは、父なる神の怒りと裁きをわたしたちの代わりに一身に受け、罪の刑罰として呪われ、見捨てられた。その苦しみは、人間が味わう、あらゆる苦しみを遥かに超えるものであった。それゆえ、イエスは、十字架の上で「我が神、我が神、何故わたしをお見捨てになったのですか」と大声で叫ばれた(46節)。ところが、イエスは、再び大声で叫び、息を引き取られた(50節)。御子は、人間の罪と死を背負われ、御自ら、命を捨てられた(ヨハネ10:17~18)。その時、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けられた(51節)。イスラエルの民が40年間、彷徨っていた荒れ野において垂れ幕は、聖所と至聖所を分ける物であった(出26:33)。

一年一回限り、贖罪日に祭司長は、自分と民のために牛を屠り、その血を取って一人で臨在の幕屋に入り、聖なる垂れ幕の前で神に捧げた(レビ4:4~7)。気が遠くなる程、繰り返して屠られ、捧げられるいけにえの血に代わり、御子イエスの十字架の血潮によってわたしたちは、それぞれが祭司長となり(ペトロⅠ2:9)、父なる神の御前に大胆に近づくことを許された。御子イエスは、ご自分のお体を通してわたしたちに「新しい生きた道」を開いてくださった(ヘブライ10:19~20)。それゆえ、わたしたちには、父なる神の御前に大胆に近づき、一回限り罪を赦される洗礼と、繰り返し罪の赦しを宣言される主日礼拝と、聖餐の恵みにあずかることが許される。十字架の上で血潮を流され、ご自分の体を通して父なる神への「新しい生きた道」を開いてくださった御子イエスの受難を覚えつつ、喜び祝うイースターを迎えたいと願う。

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