主の杯を飲む者

3月21日の説教

梁在哲牧師

 

創世記25章29~34節      マタイによる福音書20章20~28節

イエスはエルサレムへ上って行く途中、ご自分の十字架の死を初めて明らかにされた。そして、三日目に復活されると言われた(マタイ20:17~19)。ところが、ゼベダイの息子たちと母がイエスのところに来て、ひれ伏し、自分勝手な思い込みを願おうとした(20節)。そこで主は、ご自分の受難の杯を飲むことが出来るのかとお聞きになられた。しかし彼らは、その杯の本当の意味も知らないまま、栄光の杯だけを飲もうとした(22節)。彼らは、メシアの王国に苦難など、あり得ないと、同床異夢に生きていたからである。しかし、主は彼らの答えを否定されずに、答えられた(23節)。いつか彼らが、その杯の本当の意味に気づき、その杯を飲む日が来るとご存じでおられたからである。実際、ヤコブは、ヘロデ王に殺され、弟子たちの中で最初の殉教者となり、ヨハネは長生きしたが、数多くの迫害に遭遇した。

主はご自分の受けられる杯は、苦難の杯であるゆえに、ゲッセマネの園で「父よ、私が飲まないかぎりこの杯が過ぎ去らないのでしたら、あなたの御心が行われますように」と祈られた(マタイ26:42)。杯は、神の祝福の杯となり(詩編23:5)、また神の怒りの杯ともなる(詩編11:6、イザヤ51:17)。聖餐式の際、あずかる杯は、「祝福の杯」とも呼ばれる。御子の血潮である杯にあずかることによってわたしたちを罪から救われた神の恵みに感謝し、わたしたちが飲むべき神の怒りの杯を御子が代わりに飲まれたからである。それゆえ、「主の杯を飲む者」は、主の苦難と共に神の祝福にあずかる者として神の祝福を大事にしねばならない。ところが、イサクの長子エサウは、空腹を我慢できず、長子の権利を弟ヤコブにパンと豆の煮物の代わりに譲ってしまい、神の祝福を軽んじた(創世記25:34)。以前、わたしたちもエサウのように神の恵みと祝福を軽んじて否、無関心だったのではなかろうか。「仕えられるためではなく仕えるために世に来られた」(28節)主の模範に倣い、主の福音に仕えつつ、主の僕として地上の旅路を歩み続けたいと願う。

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