主の受難のかなた

3月14日の説教

梁在哲牧師

 

出エジプト記24章3~11節      マタイによる福音書17章1~13節

ユダヤ教指導者たちの激しい反発に直面したイエスは、エルサレムを離れ、北のほうに行き、ペテロ、ヤコブ、ヨハネの3人の弟子だけを連れて、高い山に登られた(マタイ17:1)。ところが、イエスの姿は、弟子たちの眼前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった(2節)。彼らが見ると、イエスは、モーセとエリヤと語り合っていた(3節)。3人はイエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について話していた(ルカ9:30~31)。後にペトロは、山の上で自分が目撃したキリストの威光について証した(ペトロⅡ1:16~18)。一同が山を下りるとき、イエスは、弟子たちにご自分の受難のかなたにある輝かしい栄光を語られた。それはご自分の十字架の死を通して三日目に死人の中から甦られる、復活と十字架の血によって結ばれる新しい契約の栄光であった。

シナイ山の麓でイスラエルの民が神と結ばれた契約は(出エジプト24:8)、彼らの罪のゆえにことごとく破られ、後に預言者エレミヤは、「イスラエルの家が神と新しい契約を結ぶ日が来る」と預言した(エレミヤ31:31~34)。最後の晩餐の時、イエスはご自分の十字架の血、契約の血によって古い契約は、過ぎ去り、新しい契約を結ばれると言われた(マタイ26:28)。イエスの十字架の死は、人間が、味わうあらゆる苦しみを遥かに超えている。それは、父なる神の永遠の怒りと裁きをわたしたちの代わりに一身に受け、罪の刑罰として呪われ、捨てられた死であるからである。それゆえ、イエスは十字架の上で「我が神、我が神、何故わたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれた(マタイ27:46)。主の受難を覚えるこの受難節の時、主の受難のかなたにある復活と主の十字架によって実現された新しい契約の栄光を仰ぎつつ、イースターを迎えたいと願う。

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