受難を打ち明ける主

3月7日の説教

梁在哲牧師

 

ヨブ記1章1~12節      マタイによる福音書16章21~28節

「あなたはメシア、生ける神の子です」とペトロが信仰告白をしたその時から、主はご自分の受難と復活を打ち明け始められた(マタイ16:21)。主は、ペトロのようにまことの信仰告白をした者にご自分の秘められた十字架の死の奥義を打ち明けられた。ご自分の十字架の死を通して彼らの信仰告白が空しい響きにならないように、また信仰告白に生き、豊かな実を結ぶように願われたからである。しかし、ペトロの信仰告白は、実を結ぶどころか躓き、失敗した。彼は、信仰告白のゆえに主に誉められた後、思いあがり、自分の思い込みで主を強くいさめたからである(22節)。主は、彼の言動から、荒れ野で遭われたサタンの誘惑を強く感じられ、厳しく言われた(23節)。ペトロは盤石どころか、主が進まれる道で躓かせる石となり、障害物となってしまった。

それから主は、信仰告白に生き、豊かな実を結ぶように「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と言われた(24節)。主は彼らが人間の思い込みを捨てて、それぞれの十字架を背負い、ご自分の受難の道に従うように言われた。主から命じられた十字架は、負いやすく(マタイ10:29)、主の道は、御父のみもとに一筋に開かれているからである。そして「人の子は、再び来られその最後の審判の時、それぞれの行いに応じて永遠の命を得る者と滅びる者に分けられ、滅びる者は、全世界を手に入れても自分の命を失う」と、主は戒められた(25~27節)。主は、わたしたちの信仰告白が空しい響きにならず、信仰告白に生き、豊かな実を結ぶように願われ、ご自分の受難を打ち明けられた。わたしたちは、主の御もとに人間のことをおろし、主の十字架を仰ぎつつ、主に命じられた自分の十字架を背負い、主の道に従いたいと願う。

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